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映画鑑賞日記「ゼロの焦点(2009年版)」 [映画鑑賞日記]

2016年1月5日、DVDにて「ゼロの焦点」を見た。

正確に言えば、いわゆる「21世紀版」と呼ばれる、ヒロスエとナカタニミキとキムラなんとかさんが出ているやつ。
そして、もうひとつの前提として、ボキは「原作」を読んでいないのと「モノクロ版」を見ていないという点も含めてこのコラムを書いている。

いわずと知れた松本清張の代表作であり、一説には、著者本人がベストワンだと言ったほどの作品。

とはいえ、ボキにとっては松本清張は過去の人であり、ドラマなどを通じていくつかの作品に触れる機会はあったが、想いとか偉大さとか人物像に触れることはないままにこれまですごしてきた。だから、別段、この作品も見るつもりではなかったのだけど、パッケージに一瞬だけ目を奪われたから借りてみることにした。お綺麗な二人とそうでない一人が
載った真っ赤なパッケージ。

◆◆◆ここから下は、ネタバレとか気にする方は読まないで◆◆◆

舞台は、昭和30年ごろの話。
お見合い結婚した夫婦がありまして、その旦那であるところのニシジマなにがしが、突然、金沢で行方をくらませる。新婦であるところのヒロスエが、東京から金沢まで出張って夫の足取りを探す。

中盤ぐらいには、ニシジマくんが死んでることがわかり、あとは犯人探しと真相への謎解きが始まり、クライマックスへ向かうってな話。

◆◆◆ ここからは感想(もちろんネタバレもあり) ◆◆◆

物語の縦軸が大きく二つ。
過去と決別し、新たな人生を歩もうとした人々の物語。そして、女性が虐げられた時代があり、その延長線上に現在のこの時代がある。というテーマ。

どちらにも共通するのは、戦後の焦土から立ち上がった日本という国と、そこに生きた人々のたくましさ。

ここで言う「生きた」という言葉は、本意であれ不本意であれ生き抜いた人、そして、本意であれ不本意であれ死んでいった人の全てをさす。これはきっと、松本清張という人が、この作品を通して(あるいは、全ての作品の中で人間を描く上で)描きたかったものであることは確かで、その点は、物語の横軸にもしっかりと描かれていたと思う。

ただ、原作の持っているであろう生々しさに対して、2009年版の「映画」としての表現や芝居があまりにも雑で無機的に感じた。

まずは、色について。
昭和30年代の世界を「フルカラー」で細部まで描こうとした努力は認めるのだが、なんかあまりにも精密にやりすぎているので、CGっぽい違和感(もしかしたらCGかも)を覚えた。

21世紀を生きる僕らの「目」は、「実際の昭和30年」ではなく「映画やテレビで見た昭和30年代」に慣らされている。その時代を頭に描こうとすると、セピアがかっていたり、往年の日本映画のフィルム独特の「あの感じの色彩」を思い浮かべてしまう。

彼らとしては、「本物の30年代」の色彩を入念に調べ、それをCGなりを使って完全再現したんだと言い張るのだろうが、そこにも問題がある。それは、現代のフィルムを通した「実際の発色」であったり、色と色の「組み合わせ方」などが、どうしても21世紀の流行りに流されていて、そこに違和感を覚えてしまうのだ。

窓の外の空気感や空色なども、言ってしまえば「モノホンの30年代」に寄せたつもりなのだと思うが、妙に違和感があって、かえってCG臭さを増長させた。かえって、撮影所のホリゾントにペンキで書いて吊ってたころの空のほうが、かえって「想像という名の補色」ができるかもしれないとさえ感じる。

まあ、それもこれも、昔の映画を「知ってしまっている」というオッサン世代の話かもしれないが。とにかく、映像を見せ付けてやろう!という意気込みが少しだけ前に出すぎていて、役者の芝居や観客の想像力を追い抜いちゃってたような印象を強く受けた。

芝居がよかったのは、加賀タケシとナカタニミキあたりか。よかったといっても、ベクトルは多少違ったが。

加賀さんに関しては、役者のポテンシャルが高いだけで、そのポテンシャルに対して演出の腕がおっついてない感じ。実はテーマのキーを握る大事な役なんだけど、最終的には「そのオチ」を観客の想像にゆだねる形で終わってしまい、せっかくの演技力を活かすことなく映画は終わる。

ナカタニさんに関しては、21世紀人から見るとおおよそ理解不能の支離滅裂な役なのだが、それを「女優」という物体が無理矢理にそれを押さえ込んで人間の形に閉じ込めている!という感じがあり、見ごたえは十分だ。「嫌われマツコ」なんていう学芸会の時には見られなかった、終盤のぶっ壊れっぷりなんかは金を払う価値のある見世物として十分だ。

ほかにも、いい芝居をしている役者さんや、そうでない役者さんもたくさんいたのだが、そもそも「役のディティール」に関しては、「脚本レベルでの疑問」が多かった。

まずは、ヒロスエのやってる一応の主人公の役。
相変わらず美人爆発なところに、30代のヒロスエは、「眉間のしわ」などになんともいえない「苦味」を秘めている。だがしかし、この台本上のヒロスエは、「平和の象徴」ともいえる「世間知らずな女の子」である。
最後まで、その清潔感と可愛らしさで突破するのかと思いきや、この主人公が上映開始50分あたりから一気に「名探偵」に豹変する。

「小説」という下地があるから止むを得ないのかもしれないが、主人公の脳内で勝手に謎解きが始まり、やがて超人的な思考で結論を導き出していく。たとえるならば、メガネの小僧から針を撃ち込まれたモーリコゴローばりに、急激に頭がよくなってしまうのだ。
映画自体が前半は、物語の進行がトロさかったり、無駄に丁寧な説明を施していくのに対して、中盤からの豹変にヒロスエの体がついてきていないのがもったいなかった。

説明臭いわりに、大事なところを描かない。その駆け引きは、脚本チームの最大の壁だったようで、加賀タケシの演じた「社長」の役と「ナカタニさんの弟」の役は、取ってつけたようで見ていられなかった。

この2役に関しては、原作と2009年版では、まったく違うディティールになっているのではないか?と疑った。完全な推測で確認する気もないが、原作はまったく違う真犯人で、まったく違う結末を迎えたのではないかと推測する。

それほどに、松本清張という作家が仕掛けたであろうカラクリに対して、映画版の上塗りしたプロットが露骨に甘く緩く感じられてしまった。

役作りだけでなく、映画自体の最大の問題点も、実は脚本段階に現れている。

それは、原作の描こうとした単純だが深く一貫したテーマに対して、2009年版は自分たちなりのテーマ性を乗せようとしすぎたのではないだろうか。


つまりは、戦争~敗戦~復興という時代を経てきた人間の業を描き、その人間たちが夢見た未来への希望がテーマだったのだが。それに対して、2009年版は、「清張が夢見た未来とは、近い過去であり、現代である」、そして「私たちも劇中の人物たちのように未来を夢見なければならないのだ」という点を、あまりにも説明臭く描こうとしすぎた気がする。

垂れ流しのテレビドラマなら、最近、そのぐらい馬鹿馬鹿しい説明をしないと意図が伝わらないのかもしれない。しかし、こちらは、松本清張の名前を借りた上に、まがりなりにも有料の劇場映画なんだから。
もう少し、情報の出し入れに関して勇気を持った決断をして、人間をしっかりと描けばよかったのではないかと感じた。

惜しかった点を述べたが、総合的には「金と時間を出して見る」部分の収穫は多い映画だった。

ヒロスエさんが可愛らしいのと、キムラなんとかさんがけなげなのと、加賀さんが上手いのと、ナカタニさんがぶっ壊れるシーンがしびれるという4点。ニシジマさんの芝居が相変わらずペラいのを差し引いても、十分なおつりがくる映画でした。

前言撤回。
機会があれば、白黒版の役者の仕事っぷりと原作も見てみたいと思いました。

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演劇鑑賞日記「四畳半の翅音」 [演劇鑑賞日記]

※江口が勝手にFB上に記したものの、こちらのほうが適当だと判断し移動したため、文体やらが些か乱雑かもしれない。



昨日(20130818)は久々にぽんプラザに行って、話題のお芝居を見てきました。九州戯曲賞なるタイトルを獲ってる台本を、オリジナルの演出家が自前の劇団で立体化した作品。
個人的には来週末のライブのネタの仕込み等でいささかナイーブな週末でしたが、南九州の劇団の芝居を見る機会は少ないので思い切って劇場へ。
作品自体は、かの口蹄疫騒動に触発され書いたという問題作。人命を奪う不治の病が大流行したという設定で、隔離地区に隣接するある田舎町の四畳半を舞台にした話。

まず第一の感想としては、よほど演劇が好きな人、よほどこのユニットやパフォーマーが好きな人、あるいは口蹄疫及び最近では原発による隔離や差別に対してよほど問題意識を持っている人にとっては、いくらか連想できる程度で、それ以外の「本当に伝えるべき人」には全く破壊力を持たない作品だと感じました。当人たちの中には、あれこれ思惑や意識はあって作ったのでしょうが、とにかく本...自体が、内面にある問題を全く表面化できていない、不親切で分かりにくい本でした。
所々にそれらしい問題意識ぽさは見えるけれど、根本的な解決もなければ、訴える核も見えない。よほど事実を描いた方が破壊力や説得力もあるが、架空が架空の域を外れる気もないから、単なるセンチメンタリズムだけが終始発信されているだけの作品でした。

たった六人しかいないキャストのうち、三分の一がすでに死んでいる二人で、しかも上手く活きていない。「死人に口無し」とは言いますが、死んだ人間を残された人間が勝手に解釈し、美化し、それで得た理屈を、作品自体のテーマや解決に利用するというやり方には本書きとしてアレルギーを持ってしまいます。演劇という表現手法が生身の役者を使う以上、やはり問題解決の大部分は生身のコミュニケーションをもって表現すべきです。
死んだ人間を勝手に解釈して、記号化し、結局、生身の答えを描けない書き手の稚拙さをなすりつけるやり方は、近年、特に福岡の演劇には横行してるやり方です。現に先日のインデペンデントも(甲乙ありましたが)6作品中5作品が、劇中、なんらかの形で人が死ぬ本ばかり。死を利用してしか生を描けないというのは、演劇という表現手法に対する逆行だと思うのですが、この本もやはり結果的に真正面からは生を描いていない作品でした。

そしてもう一つ。役と役とのコミュニケーションの希薄さが目立つ芝居でした。一見、複数の人物が会話をしているように見えるのですが、それぞれの役がいわばモノローグのように個の立場や思惑を勝手に吐いているだけで、そのセリフや仕草によって相手役の感覚や感性に影響を与え合う事がない。
物語の始まりと終わりに、状況や人格上の劇的な変化を生み出す。その落差こそがドラマだと、僕ら脚本家は心得ています。しかし、この芝居の人物たちは、状況こそ変わる事はあれ、立場や人間性が成長や変化していく事はありません。
一因には役者さんたちの本の読み方もあると思います。自分のセリフだけ暗記して、自分のセリフだけ加工するのに夢中で稽古したのでしょう。相手のセリフもちゃんと読み込んでいたら、もっともっと高度なコミュニケーションのリンクを張り巡らせて、もっとチャーミングに生身の人間の体温や体臭を表現できるのに。台本を無計画に手放すのと台本を意図的に外すのは訳が違います。ちゃんと理解するまで読んでいたら、ある程度は役者サイドの力だけでも本は立ち上がりますので、演出家の上前を跳ねるプライドを持って、もう少し立体的に本を読んで欲しかったですね。

そして、一番根本的な問題は、口蹄疫にヒントを得たという、架空の病気の扱い方。この作品の最大の仕掛けにして、最大の障壁は人を死にいたらしめるキョウシ病という病気。これこそが、立ち向かうべき壁であり、全編に渡り登場人物たちのストレスなのですが、このキョウシ病がどこから来て、人間をどう苦しめ、さらには人間に病気とそれ以外のどんな問題を投げかけ、人間はどう立ち向かい、最終的にそれはどこへ行ったのか?この当たり前の流れが全く描かれてないので訳が分かりません。繰り返しますが、作るサイドにはそれなりの思惑や意図はあるのでしょうが、それが他者である観客に対して全く示されないので、観客はその作品のどこに自分自身を置けばいいのかがまるで分かりませんでした。
これも繰り返しますが、演劇を見慣れてる人、このユニットやアーティストに慣れている人、この手の問題に多少の知識や意見のある人は、あるいは「それはちゃんと書かれてたよ」というのかもしれませんが、いわば伝えるべき他者には不親切で薄い台本だったと思います。
現に、オープニングから大した意味もなく舞台に撃たれるプロジェクターを使った文字での説明。僕は正直、これより端的なメッセージを劇中の役者の営みからは全く感じませんでした。これも近年の九州演劇の悪い流行りですが、プロジェクターを多用したければ映像作品にすればいい、文字やモノローグに頼るなら活字にして観客に配ればいい、演劇屋であるプライドを持つ僕は素直にそう思います。間違ってもそのコケ脅しを演出とは呼ばない事です。

いろんな要因が重なって、とにかく、まるっきり僕の琴線には触れなかった芝居でした。10年ぐらい前に「パールハーバー」というハリウッド映画がありましたが、感覚としてはアレにすごく似ています。「九州戯曲賞」とか「口蹄疫騒動」とか、そういう触れ込みは作品自体を見た人でなく、見ていない大多数に対してかなり強い影響を与えます。しかし、実際にその皿の料理を食わされるのは客席にいる人です。ウエットなセンチメンタリズムで煙に巻き、肝心の人間や問題を描かない作品は、それを口にした人の毒にもならなければ薬にもなりません。

演劇の劇は劇薬の劇。扱い方をいい加減にすると、どうでもいい周りの奴らが死にます。もっと見る
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演劇鑑賞日記「インデペンデント:FUK13」 [演劇鑑賞日記]


2013.08.04SUN、最強の一人芝居フェスティバル・インデペンデントの福岡大会を見た。

過去二回のポンプラザから場所を変え、薬院と平尾の中間ぐらいにあるFUCA BASEなる会場。失礼を正直に言えば、地元の演劇人もしらない会場での開催。しかし、飲食店兼ライブハウス兼アトリエのような個性的な空間で、広さや作りも充分な会場。インデペンデントのメインカラーである黒基調からは外れるが、白がベースのキャンパスを思わせるカラーイメージが、整然とした立派すぎる造りのポンプラザに比してアンダーグラウンド感と自由競技感を演出する。

今年は、クレジットだけ見る限りは、福岡のインデペンデントという面では非常に充実した贅沢なメンバー。関西・関東に押される事に甘んじていた昨年のメンツに比べたら、しっかりたっぷり太刀打ちが出来る顔触れ。

僕は、その中でも異色の長崎白濱×関西青山コンビに誘われ観戦に出かけました。

とりあえず六個も作品があるんで、FALCONさんの作品説明やら感想を記したが早いですね。相変わらず長くなりますがお好きな方はお付き合いあれ。
順番は今日の出番に伴い、Bブロックから。クレジットは演者×作演出。

B1「2」冨川優×大迫旭洋
二年前、第一回福岡大会で予選を制した不思議少年の大迫くんが作演出した作品。演者自身の身の上話として語られる、同性愛の恋愛遍歴。同性愛に目覚めた初恋から、女性との恋愛で感じた違和感、そしてドロップアウトの瞬間と、死に物狂いで愛した男との修羅場の顛末まで。最後は、こんな僕をどうしましょうと話しながら演者が土下座で救いを求める話。
まず第一の印象として、エグさというか生々しい表現で、口当たりや喉ごしは正直すこぶる悪い。しかし、あと味なのか香りなのか分からないが、妙な爽やかさがある。もしかしたら、カミングアウトしている彼自身の人柄だったり、あらかじめ「二度と会わないから20分だけ聞いてくれ」という前振りの安心感なのかもしれないが、「なんでそんな話を聞かされなきゃならないんだ?」という不快感とは対極に、必然性や説得力すら感じる不思議さがある作品。
インターバルに、面識のある大迫くんに聞いてみた。「あれってどこまでマジなん?」すると「いやあ、どうなんですかね?多少合ってんじゃないかとは思って書いてますけど」と、決して企業秘密ではないものの、当人たちもガチですり合わせた訳ではなさそうな、これまた不思議な答が返ってきた。
一緒に観劇していた永松亭は、「急にサカりだした仔犬のちんちんを見せられてるよう」な、なにかいけないモノが剥けてるような芝居だと言った。大迫くんもまた、「ただ剥け方が中途半端になっちゃいました」と笑った。うーん、まさにそれが最も適当な表現かもしれない。剥けてはいけないモノも、とことん剥ければ笑えるアイテムや下手すりゃ芸術にもなる。しかし、この芝居は、そもそも生剥けなのが意図であり、個性であり、彼ららしさかもしれない。
ただ、不思議少年という名で男二人でこんな生剥けな芝居してたら、それこそソッチの劇団と思われるかも。卑屈なのに決して埋もれないバランスと足腰はあっぱれ。

B2「悲しまない人」富田文子×中村雪絵
第一回福岡大会以前に、すでにインデペンデントの舞台を踏んでいる劇団ぎゃ。の作品。
僕は本公演を拝見した事ないが、ぎゃ。が大好きである。専門用語で言えば「飛び道具」と呼ばれる女優たちの専門店みたいな劇団。個性的でクセや味やコクが強く、決して見た目で勝負してないかと思いきや、各々のフォルムのチャーミングさを腹立つ程に熟知していてそれを武器にしたり、そのくせ美人だという前提を当たり前に押してきたり。要はおもろいブスの集まりなのだ(※あくまで褒め言葉です。大好きです。個人的な謝罪には応じます(≧∇≦))。
さて、そんな飛び道具の女優が、オープニングから「飾りじゃないのよ涙は」を絶唱する。それも持ち時間の10%は軽く超える時間を使って。この時点で客席は「なんでこんな豪雨の中をこんなわかりにくい場所まで来て、金を払ってまでこんなモノを見てるのだろう?」という得も言われぬパラドクスにズボリと首まで漬けられる。あとは、一旦バグった感性と脳みそにテンポ良く叩き込まれるセリフとストーリー。
話はあるオンナの一代記。足が早く韋駄天と言われた少女が、中学の夏、陸上で全国制覇を成し遂げたその絶頂で出くわすアクシデント。夢や希望を絶たれたオンナは、その後の人生を転がるように生きていく。いくつかの時間枠を切り取り、その年齢時の職業や価値観や思いをモノローグで語っていく。最期は、あの忌まわしきアクシデントを自分にもたらした張本人と対面し、自分の中でなにか堰き止めていたものを開放に向かわせる出会いとなる。という話。

秀逸なのは、役者の体の捌きのシャープさと、台詞回しとそれに伴う肉体言語の緩急の見事さ。中盤からストーリーに意外性はなく(悪い意味でなく、順当に)、芝居自体は決して高い電圧ではないのだが、緩急の手綱が上手いので飽きる事なく展開を追える。
また、音や光の使い方が、工夫&訓練されているので、役者の身体表現を邪魔することがない。衣装も抽象的だけど個性的で、いわば舞台に存在する全ての要素が、ぎゃ。の産み出す一つの作品を全面的に演出し、創作しているのだ。この点は二年前の福岡予選でも少し触れたが、このぎゃ。という集団の特性であり本当の強さだと思う。きっと喧嘩や食い違いもあるのだろうが、いざ本番に向かうには総員一丸で仲間を信頼しサポートする姿勢。

はてさて、オープニングから一貫して軸に通している「飾りじゃないのよ涙は」という歌。そして、「悲しまない人」というタイトル。縦軸になるのは「悲しみ」という言葉の定義と、その悲しみをすなわち「悲しまない」人間の理由と行動である。一番大きな違和感は、この縦軸が果たしてこの作品で表現出来ていたのか?という点。
主人公は確かに幾度か悲しい出来事に襲われるのだが、その途中、結婚して子供を持ったり、自分の価値観のみを切り売りして自由気ままな生活を一時期手に入れたりもしている。そして、それらの悲しみをどうやって受け入れるなり切り捨てた結果、悲しまないという主張に至るのかが描かれないまま、強引に次の時間枠に移行する。
タイトルか歌のどちらかが違うものならば、この作品は非常にセンチメンタルかつユーモラスで、笑える悲劇である。だが各シーンに埋め込まれたオチを受けて、主人公が語る「私は悲しまない人」であるという主張がどうも腑に落ちない。確かに悲しいんだけど、落ち込んだり失望したり嘆いたりはしているし、それらに対して「悲しみ」はしていない、という主張に今ひとつ根拠以前の明確な梃拠がないのだ。
そこへ来て、オープニングで長々とプレイのように聞かされた名曲「飾りじゃないのよ涙は」という歌が、果たしてこの悲しまない人が語っている心情と一致するのか?という点に、とてもとても大きな違和感を覚えた。

ぎゃ。のインデペンデント作品を見るのは二度目で、総合的なアプローチとして球種が多いのには感心する。が、いつもどこか一番大事な縦軸が奥深くまで刺さりきっていない印象を受ける。アイディアの秀逸さや集団の周到さに対して、どうも今一歩、自分たちが示したテーマに踏み込んでいない気がする。
まあ、それもまた個性だし、確かに昨今の観客自体が、演劇を通じてそこまで深くダメージを受けたいと感じていないという側面もある。この小気味のよい悲劇を見て、ただただ笑っていられる人たちが、もしかしたら根本的な悲しみなんて望まない、言わば悲しまない人たちなのかもしれないね。

B3「悪徳商人レヴォリューション」浅田武雄×青木道弘
Bブロックのトリにやってきたのは、昨年の本家のトライアルを勝ち上がり本編で暴れたという大阪のユニット。久しぶりに「腰を抜かす」という形容をしてしまう、いわゆる正真正銘のバカ芝居を見た。
人気TV時代劇「暴れん坊◯◯」に出て来る悪徳商人をフォーカスした、モノローグ仕立てのドタバタコント。国の未来、藩の未来、民衆の未来を憂い、奔走する若き商人が主人公。やがて先輩商人たちの背中を追いかけるうち、知ってか知らずか必要悪にも手を染め、気がつけば自分もまた、面の皮が欲で張った立派な?悪徳商人に成り上がっている。そして、これまた当然、悪は成敗される慣わしで、終にはあの暴れん坊◯◯との対決をせざるを得ない運命を迎える。良かれと思い生きてきた若者が、必要悪として言わば必要善に打ちのめされることへのパラドックスを、非常に乾いた爽やかなタッチで、なおかつ深く描く問題作。

秀逸なのは、このユニットが、セリフ・表情・仕草・立ち位置・音・光といった、何しろ演劇という格闘技を構成する要素を、徹底して知り尽くしている事。演出する事にも演出される事にも、信じられないほど充実した信頼関係があり、互いに忠実で素直な対話が成されていると感じた。
そして、優れているのは、全てを知り尽くした上で、一つ一つをとにかく極限までシンプルに削り落とした上で凄まじい破壊力で挑んでいる事…、つまり最小限の手数で最大限の収穫を得ているユニットなのだ。「最強の一人芝居フェスティバル」という言葉の「最強」が、どの言葉に掛かっているのか未だにわからないが、もし「一人芝居」という四字熟語に掛かっているなら、このユニットは無双の力を持っている(ちなみに「一人」という二字で戦えば、うちのキネマおじさんも引けをとらない破壊力を持っているのだが)。
具体的に言うと、セリフのシンプルさや台本構成のシンプルさ、加えて狭い舞台の上で立ち位置や照明を的確に変えていく使い方が上手い。不要な音楽をハッタリで流すではなく、必要な箇所にこれまた最小限の音楽を意図して入れる技術。あまりこの辺を強調して、当の本人たちが「え?無意識でしたけど」と言われると困るが。例えれば、遊びの上手い子の遊び慣れたおもちゃ箱に入ったような、天真爛漫さすら感じる、とにかく「ニクい」30分なのだ。

理屈はさておき、誰もがゲラゲラ笑っていられる芝居。インターバルにうちの永松とも話したが、我々teamFALCONが「作り得る作品」としては、六作品中で最も近い路線の上にある作品だと感じた。
アーティストは作品を見る時に常に最低ふたつの目を持っている。ひとつは純粋な観客としての目線と、もう一つはもちろん作り手としての目線である。単純に面白いとかつまらない、好き嫌い、良し悪しの他に、自分が作り手として興味があるかないかという目線である。その目線で見れば、昨年一昨年と福岡にやってきて、あたかも神のようにみんながお高く崇めていた「今さらキスシーン」なんてのは、僕はアーティストとしてカケラの興味も沸かないガキの食う駄菓子みたいなもんだ。
この悪徳商人レヴォリューションに関しては、ともすると電圧の高さや見る人によっては同じニオイの作品かもしれないが、僕は大いにシンクロし腹の底から楽しんだ。

というのも、とかく浅くつまらない笑いしか追いかけられない九州演劇には、これほどシンプルで骨太な笑いを真顔でバックスクリーンまでスイングできるユニットは皆無に等しい。キネマおじさんが、結果ファールながらも場外までかっ飛ばして見せた、昨年と一昨年だが。。。ここでは、さすが関西という素直な敬意は示しておこう。
ただ、teamFALCONが仮にこのアイディアに着想し、形にしようとした時に、おそらく総合的なクオリティで彼らの域に行けない。先ほど書いた、シンプルに削り落とした上で、徹底して演出する事が、やはり彼らが断然上だからだ。うちは、江口や永松の個々の風力に任せて、言わば本番の舞台上でアクシデントという名の完成形を見せるような手口だ。我々がいい意味で10回やって10回違う事ができるように、このユニットはいい意味で10回やって10回同じ事ができるチームだと感じた。

訓練に裏打ちされた説得力で、単純なバカ芝居をやられたら、そりゃ脳天はかち割れますよ。どうでしょう?同じ条件の舞台で九州のキネマおじさんと戦ってみませんか?

A1「武家屋敷顛末奇譚~なまけもの五平」青山郁彦×白濱隆次
インデペンデントが全国ツアーに乗り出して三年目。新たな人のつながりが出来て、日本の演劇界がほんの少しでも近づくきっかけになったのは事実である。そうして、その芽を具現化したのが、今回の福岡大会で大注目すべきこのユニットである。
ともに本戦でインデペンデントに立った役者である、関西の青山さんと長崎の白濱さんが、福岡のインデペンデントでタッグを組んだ。
二人は一昨年のインデペンデントで親交を深め、様々な形で九州と関西の橋渡しをしてきた。今回は白濱さんが本を書き、青山さんがそれを演じた。

九州と関西が手を組んだ異色のユニットであることはもちろんだが、この作品に対して最も特筆すべきは、今大会唯一「モノローグ」という手法を取っていないことである。
インデペンデントに関わらず、一人芝居というジャンルには、主人公が自身を一人称として、特定の相手ではなく、誰もいない宙空にセリフを投げ続ける「モノローグ=独白」と呼ばれる手法が、当たり前のように用いられる。ともすると、一人芝居ではない複数人が登場する演劇においても、狙いではなく当たり前にモノローグで場面を進めていく邪道な脚本家が蔓延っている昨今。
僕は、今村学校で藤田傳さんのもと芝居を書き始めたが、「芝居ってのは人と人が関わっていく営みを描くものだ。つまり原則としてセリフとト書きのみで構成されていなくてはならない。脚本家の腕がなくて人間どうしの営みを描けないのを、モノローグにすることで無理矢理ストーリーを進めていくなんてのは、逃げ以外の何物でもない」とキツく教育されている。だから、インデペンデントにしろなんにしろ、一人芝居を書くのにあたって、モノローグという手法はアレルギーのごとく選ばない体になっている。
白濱さんは、一昨年の「時間ぎれを待ちながら」然り、一人芝居というジャンルの中でモノローグを使わずに勝負をかけ、その個性を見せつけてきた。1人が何役も切り替えて演じていく見事さや、チャンバラものの時代劇であるという個性もあるが、第一にモノローグを捨てても緊張感を一直線に積み上げられるという事をこの白濱作品もまた、見事に体現していることを個性であり特性であると強く押しておきたい。

さて、今回の話は江戸時代のある武家屋敷での物語。近辺を跋扈する盗賊の仕事をたまたま目撃してしまった二人の子供。そんなに危険な事とは想像だにしていなかった二人は、やがて盗賊に命を狙われる。平和な屋敷は炎に包まれ、一人の子は命を落としてしまう。その仇を撃つべく剣の腕を磨いた主人公は、たくましい青年となり、やがて盗賊のアジトに殴り込む。という話。
大衆演劇やアクションで腕を磨く青山さん。年齢や時間、空間を超えて、次々に演じる役を変えながら、凄まじい気魄で緊張感を紡ぎあげていく。所作や立居振舞も鮮やかで観客をグッと惹きつけるのに、相変わらずの大根カットの観客サービスも忘れない。パフォーマーとしての総合力が強いので、安心してドキドキに身を任せられる三十分。
今回も飛さんなのか音楽も秀逸で、三味線メインの音楽に合わせたタイトルバックも個性を光らせていた。力強い上にアラを探すのが難しい作品で、もちろん一観客としては大いに楽しんだ。

これはアラというレベルではない話だが気になった点をひとつ。
僕は観劇中、白濱さんの顔を思い浮かべていた。もし、この本を書いた張本人である白濱隆次が演じたら?また同時にいちパフォーマーとして、もし自分がこの本をもらったらどんなアプローチをするか?
脚本家としての白濱さんは、自身の公演でも当て書きをメインにしていて、役者にあわせてセリフを書いていく。しかし、今回のように次々に役が変わる場合は?そう思いながら見ていると、この作品のもう一つの面が見え始める。
確かに今回も、青山さんのフォルムに合わせて本を書いているし、青山さんもまた、それによく答えている。ハッキリ言うと青山さんでなければ完成しない本かもしれない。
だが、当の青山さん自体の腕が鮮やかすぎて、それは同時に新たな弱点を生み出している。青山さんは大衆演劇にも身を置くパフォーマーであり、劇中も見事な体捌きで役を切り替える。だがそれが見事すぎて、ともすると一人一人の人物を平面的にしてしまっているモロさがあった。
主人公の五平は仇討ちに行く際、怒りに燃える凛々しき剣士となる。だが、その一方では、やはりナマケモノと見くびられる五平の顔もある。のだが、その二面性を描くまでに、他のキャラクターやそもそも五平自体の役作りの中にその二面性が表現されていない。だから、急に彼が二面性すなわちチャーミングさを露わにしたのに、観客は青山さんというパフォーマーへの信頼感から、一瞬、あれ、役が変わったの?となってしまい、この本で一番魅力的な瞬間を共有するタイミングを失ってしまうのは惜しい。
悪役は悪役らしく、威厳のある父は威厳をもって。そこまでの仕事が親切で丁寧すぎるがゆえだが、なにしろ「悪役にも悪役なりの正義や人間性がある」という作品を見た直後だけに、惜しかった。
青山さんという一流のパフォーマーを使って、ホントはそういう深い味わいが見たいですね。次は。

A2「ヴァニシングポイント」椎木樹人×竹内元一×原作:奥山貴宏
椎木さんというパフォーマーの仕事を初めて見た。言わずと知れたガラパゴスダイナモスの主宰でウィキペディアにも載ってる有名人さんである。
今回、唯一の原作もの。肺ガンに蝕まれ三十代で命を失ったフリーライターかなにかの手記的な随筆をもとに、一人芝居という形で舞台化した作品。肺ガンに自発的な原因や遺伝の問題でもあれば、親や自分を恨んだり反省や割り切りも出来るが、身に覚えもない、全くもって運が悪いとしか言えない発病と余命宣告。
もともとロックだかテクノだか音楽活動もやっていた著者が、センチメンタリズムやウエットさを極力排除したドライな口調で赤裸々に語るテキストをベースに、仕草や表情で息吹を込めながら立体化するパフォーマンス。

まず大前提に、パフォーマーの実力とユニットの実力は評価し、素直に拍手すべきである。姑息な手段なく、ストレートに表現した上で、これだけのメッセージと清々しさを嫌味なく撃ち込める腕は、もはや九州のアマチュアの範囲ではなく、中央のプロの実力である。
膨大なテキストを丁寧に扱うセリフ回し、舞台という非日常の空間で役者の意図の通りに適格に無駄なく動く肉体のニュートラルさ、そしてあれだけの至近距離で観客があたかもそこに生身の著者がいるとすら錯覚させる表情と存在感。故人を扱ってはいるが、そのテキストはまさに在りし日の「生」へのこだわりや息吹が塊となって飛んでくる。見事な芸であり、この原作を知らない他者に対しても、演劇、一人芝居という媒体を通してメッセージを訴える。しかも最小限の手数で最大限の破壊力で。
総合力と最大瞬間風速は、今回まさしく最強と呼べるパフォーマンスだった。

もちろん、原作ものであり、しかも事実をもとにしているという点は、かなり高い下駄を履いた上での評価である事は言うまでもない。その下駄がある故に、当然、評価は50%ぐらいは甘く見積もっているのだが。テキストに寄りかかったり媚びたりしていない姿勢と実力は充分評価したい。

あとは、パフォーマンスとして、やはりモノローグがベースになってしまうという弱さか。淡々と随筆を追って行くだけなので、ある意味では演劇でなければならない理由はない。しかし、モノローグが大多数を占めるインデペンデントにおいても、ここまでシンプルなストレートさを産むパフォーマンスはなかなかお目にかかれないだろう。
少し回りくどい言い方になったが、僕はこの作品を見ていて、「もし自分がモノローグという形式を選んだとして、果たして彼らと渡り合えるだろうか?」という疑問を持ってみた。彼らはそれほど真っ直ぐに演劇に取り組んでいるし、逆に椎木さんというパフォーマーに単純に朗読などをやらせても一定レベル以上の応えを見せてくれるだろうと感じていた。
オトコマエな芸人は一人でもオトコマエだね。がぜん、このアーティストに興味が湧きました。娑婆で会いたいですね。


A3「初恋、奔る」イトウエリ×勝山修平
「いきなりキスシーン」あたりと同様に、観客としてパフォーマーとして興味に触れる箇所なし。コメントなし。
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バチカブリ後記Ⅱ「バチカブリな面々」キャスト紹介 [空中楼閣日記]

 それでは、感謝を込めて、そんな「バチカブリ」を彩った総勢12人の面白い役者たちをご紹介しておこう。

以下、【役者名(役名@所属)】

【井口誠司(キュウちゃん役@井口誠司企画)】 
「バチカブリ」を上演する上で最初の課題は「主役」のキュウちゃんを誰がやるのか?という問題だった。割と早い段階で候補に挙がり、声をかけたのが「十九人の欠片」でも好演してくれた井口誠司だった。
 誠司キュウちゃんに求めたのは、なによりも「清潔感」。誠司は普段のキャラクターもあるのかもしれないが、どこかに「おぼこい」感じというか「世間ずれしていない」感じというか、独特の清潔感を持っている。生き馬の目を抜くようなギラギラ&ドロドロとした占い師軍団の中で、どこか「清潔感」というか頑固ともいえるピュアさを出してくれれば、この芝居の大黒柱が完成すると考え、誠司のキュウちゃん作りが始まった。

 一番の課題は「年齢を出せるのか?」という一言に尽きたと思う。誠司はピュアな反面に芝居が幼い。それがよく作用することもあるのだが、年齢を重ねるごとに、そんな局面よりも、もっと的確に年齢や年輪を表現しなければならないことが増えると思うし、役者として長持ちさせるには、そろそろ本格的に「年齢を演じる」ことを身に着けてほしいところだ。
 そういう意味で、キュウちゃんの生きてきた時間の積み重ねがどのぐらい表現できていたのだろうか?昨年、井口誠司企画で松尾芭蕉を演じた際に演出として稽古場で遊んだことがあったが、あの時も今回も、やはり「まっすぐさ」は演じきれていたのだが、「寄る年波」がもっと乗ると、もっともっと幅広い年齢の客層にメッセージを伝えられるようになると思うのだが。

 さて、本番。誠司は一番の見せ場であるクライマックスで、恐るべき集中力と開き直りを見せ、キュウちゃんという役に命を吹き込んだ。アンケートを見ても「キュウちゃん」が強く印象に残った方は多かったようだ。もちろんそれは全て舞台の上にいた誠司本人の手柄だから遠慮なくそれを受けていい。
 ただ、同じ役を他の役者が演じていたら、そのうちの何割が「誠司自身のみ」に向けられた感想だったのだろうか?キュウちゃんに向けられた感想と他の役者が演じていたらもっと付け加えられていたであろう感想もまだまだたくさん埋まっているような気がする。

 もちろん役者は「作品のクオリティを上げてナンボ」であるが、作品をやり終えて、なんとなく誉めてもらえる感想があれば「それだけを食べて生きていける」という気持ちもわかる。しかし、観客は次回はもっと高みを求めてくる。その中で、「本番よければ」にとどまらず、甘い褒め言葉の中に埋没している「次のレベルにあがるための課題」をストイックに求めてほしい。
 井口誠司は「芝居をやっている」だけではない、「芝居を見せている」と堂々と話せるように。まだまだ無限の伸びしろがあるぞ。


【カナ汰(キュウちゃんの奥さん@ほとめき倶楽部)】 
今回、一番最後まで役者が決まらなくて、最後の最後にオファーを出して駆けつけてもらったのがカナ汰演じる奥さんだった。本当に短い稽古時間にもかかわらず、遠くから通ってくれて、がんばってくれたことには感謝するばかりである。
 台本のからくりを話せば、市民劇でやる以上、キュウちゃん一人にいわゆる主役級の仕事量を任せてしまうと、他の出演者とのバランスが悪くなる。そういう意味から生まれたのが、この「奥さん」という役だった。しかし、ただ存在するだけの役を書く気はないので、執筆するうちにいつものごとく人物が独り歩きを始めて、いつのまにかラストシーンではかなりのキーポイントになる面白い役が完成した。

 カナ汰との付き合いは、久留米の市民劇団ほとめき倶楽部でスタートした。とはいっても、ほとめき倶楽部は「大人が大人相手に大人を演じる」という芝居をあまりしなかったため、どうにもこうにもカナ汰に関わらず、役者たちの「本気の芝居」を見る機会が少なかった。
 ただ、中国に留学に行ったり、石山作品の現場やActor's Cafeで会うこともあり、その情熱や行動力を見て「この子ならやってくれる」と思い稽古場に来てもらった。

 20歳のカナ汰にとって、誠司以上にしんどかったのが「年齢を出す」という作業。加えて、これまでの演劇経験の中で、単調な台詞回ししか仕込まれていないらしく、ここでも大きくてこずった。「セリフを額面どおりに発するな」「セリフに不必要な意味を乗せようとするな」というダメ出しに頭を悩ませながら、それでも持ち前の明るさで、めげることなく本番まで頑張ってくれたことには感謝するばかりだ。
 しかし、カナ汰は言語センスが悪いわけではない。そして、とても優しい子なので、人間の「いやらしさ」や「だらしなさ」を糾弾することなく受け入れて愛する感情の湿度を持っている。このあたりが、誠司の持っている清潔感とうまく呼応して、「頑固なほどにピュア」だし空気も読めないけれど、決して「敵を作らない」独特の呼吸の夫婦が出来上がったと思う。

 本番度胸もたいしたもんで、出ずっぱりの役にもかかわらず、最後の最後まで、あのギラギラとした面々の中でよく戦ったと思う。もちろん、稽古不足が露呈したところもあるし、台詞回しがどうしても平面的になるなど、まだまだ目に見える課題は山積みだ。
 しかし、カナ汰は可能性を豊潤に秘めた面白い素材だ。肉体訓練や役作りの基礎をしっかり覚えたら、セリフもまわせるしパワフルな芝居も出来ると思う。また機会があれば必ず声をかけるので、そのときにはまた遠いところを稽古場まで駆けつけてほしい。


【中尾健志(ヒロヤン@空中楼閣)】
 2011年の空中楼閣で目覚ましい成長をとげ、シーンの緊張感を預けられる「真打ち」まであと一歩というところまで迫ったのが、空中楼閣の核弾頭・中尾健志である。ところがあと一歩のところで自分を信じきれず、殻を破りきれなかったのが残念なところだ。
 そんな中尾だからこそ、今回のヒロヤンという役は大いに勝負の一番だったと思うのだが、当人の手ごたえはどうだろうか?役者に関わらず、「男の30歳」というのは大いに人生の行き先に思い悩むところである。それがゆえに、芝居をやると決めるなら決めるなりに「確固たる覚悟」を持たないと、生半可にやることは、潔くやめる事以上に失うものが大きい。

 さて、ヒロヤンという役は、「リストラ大王」でいう所の「宗ちゃん」の役どころ。実は主役のキュウちゃんが大きく変化しないからこそ、もっとも大きな変化をもってストーリーを牽引していくのが、このヒロヤンである。中尾の取り組みの中で一番難しいと思ったのは、ヒロヤンという役の情報処理能力をどのあたりに設定するかというところだと思う。
 ヒロヤンという人間は、どの程度のレベルの話は理解して、どのレベルの話からは聞く耳を持たなくなるのか?そのあたりの手綱の握り方ひとつでもっともっと地に足が着いた息吹を与えられるのだが、中尾はその手綱に手をかける前に、役作りがおろそかになっていた印象がある。

 役作りの作業の中で、まず「役者の処理能力」と「役の処理能力」を見抜く必要があるのだが、中尾は普段の生活の中で自分自身の処理能力をしっかりと理解していない節が多い。「もっと処理しなければ」という焦りや「もっと処理できるはず」という背伸びが仇となり、本来はもっと吸収できるべき情報を処理しないまま棄ててしまっているケースが多い。
 簡単な言葉で言えば「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という素直さや謙虚さを持っていないことが中尾の最大の弱点である。不必要なプライドや「こんなことを聞くのは失礼だ」「こんなことを言うと場の空気を壊してしまう」という不必要なデリカシーが足を引っ張っている。つまり「芸人は聞いたら終わり」という言葉を「額面どおり」にしか理解していないからこそ、いつまでたっても与えられたセリフを「額面どおり」にしか吐けないだけの話だと思う。

 なんだかんだで第三法廷では多くの本番を踏み、空中楼閣においても誰よりも長くFALCONの現場での稽古を眺めてきた男が、どうしても最後の最後で殻を突き破れないのはなぜだろう?原因はたくさんあるが、ひとつは上に挙げたような理由が「甘え」となって足を引っ張っているのではないか?
 2012年、君の人生にとってもとても重要な1年だと思うよ。東奔西走して現場から現場を貪欲に駆け巡り、そして一つ一つに自信を持てる「応え」を出し、あんなことやこんなことを身につけたと言える年にするのか。それとも、何をやっても中途半端で、気がついたら疲労感と整理されないゴミの山だけが残った薄い年だった…、と思うのか。
 それは、他の誰が決めるのでもない。自分で決めることだ。


【舞紀(ミチヨちゃん@元PROJECTぴあ)】
 舞紀がどういう理由で舞台から遠ざかっていたのかは、結局のところ知らないが、なにしろ数年ぶりに板の上に帰ってくると話した時の石山さんの自信に満ちた顔をよく覚えている。2011年、PROJECTぴあ作品「江口章子の五葉の写真」で復活した舞紀が、「バチカブリ」にも出演することが決まったのは、まさにその「江口章子~」の打ち上げの席だった。
 いかなるブランクがあろうとも、確実にここまでは出力してくれるという安定感が、PROJECTぴあの一時代を牽引した女優・舞紀にはある。そして、その安定感をはるかに上回る「応え」を舞紀は「江口章子~」で見せてくれた。

 だからこそ、「バチカブリ」のメンバーの中では、何ひとついじるところもなく、勝手にやってくれてもおなか一杯に満足できる安心感に包まれながら、舞紀にはミチヨちゃんという役を渡した。本当はカナ汰がやった「奥さん」を渡すかという案もあったが、ヒロヤン同様に仕事量の複雑さに着目し、難易度の高いミチヨちゃんを舞紀に任せた。
 それからもうひとつ。第三法廷時代を通じて、舞紀にはFALCON作品らしい役を振る機械がなく、どこかで「思いっきり暴れる仕事」をさせたいという思いがあった。

 結果を見ると、いい意味で予想通りという安定感と、これもまた小気味よく予想を上回ってくれる「味」でミチヨちゃんという生き物を面白おかしく楽しんでくれた。舞紀の芝居に関しては、足すことも引くことも見当たらない。ただ確実に芸を磨いてきているという印象があり、これからも石山作品やFALCON作品で本格的に暴れてくれることを望むまでだ。

 一点、土産話を残すならば、今回は少し大人しすぎたかな…?と一部の役者に物足りなさを感じさせたというエピソードを記しておこう。
 舞紀と前回最後に組んだ「リストラ大王」の冒頭、主人公の妻を演じたときのこと。千秋楽で気合が入りまくった舞紀の電圧がファーストシーンからMAXに達し、そこから続く2時間半のボルテージを制御するのに四苦八苦したということがあった。
 それから6年。前述の「江口章子~」でも冒頭シーンを任された舞紀が、これもまた思いがけず頂点を突き抜けたボルテージで芝居をはじめ時、それから始まる舞台のボルテージをこれまた必死に制御しながら空中楼閣勢は思わずニンマリしたものだ。
 そんな話を稽古場で笑い話にしていたせいか、バチカブリの舞紀は全編通して、ボルテージをかなり低めに制御していたという感はあった。相手役のヒロヤンとのバランスや役作りもあるので、それがいいように作用していた面も大いにあったのだが、それでも共演者としては「おとなしいな…」「もっと行ってくれ!」と期待していたことは記しておく。
 まあ舞紀がおとなしい分、ボルテージをぶっちぎって制御できなくなっていた役者が他にいたので、のちのち「そっち」をいじることで勘弁するとしようかww


【能城芙由子(いづみちゃん@ほとめき倶楽部)】
 九州でこれからブイブイ言わしていく役者はたくさんいるが、芙由子はその中でもS級に面白い素材として、チェックしておいてほしい存在である。演劇に対する情熱やひたむきさ、天真爛漫な人柄と大胆な行動力、そして何よりグンバツの言語センスを持ち合わせた女優が稽古場にやってきた。
 芙由子との出会いは「ほとめき倶楽部」に始まり、石山さんの現場でその腕を知り、今回わざわざ佐賀から呼びつけて稽古に参加してもらった。どうせ来てもらうなら、おとなしい猫の皮なんか脱ぎ捨てて、力いっぱいにFALCONワールドを暴れまわってほしいと思い、芙由子にはいづみちゃんという役を渡したのだが、本人の手ごたえはいかがなものだったのか?

 いづみちゃんの役に関しては、ほとめき倶楽部版の頃から、芙由子をキャスティングしようと思っていた。石山さんの前では猫をかぶっている芙由子を(もちろん、その程度の皮は簡単に見抜く人なんだけどw)、もっともっと暴れさせようといういたずら心は、バチカブリの舞台で実を結んだ。
 バチカブリの登場人物の中では、一番ストレスがなさそうなのがいづみちゃんであり、全編を通すと、彼女ほど自分の思い通りに振舞っているのに、敵を作らない人物もいない。ところが、そんな彼女が親の言いなりに「巫女」の格好をして祭壇に腰掛け、スケベな男性客の視線やセクハラに甘んじながら生きている。「嫌だ嫌だ」と口では言いながら、その実、現実に対して必要以上に流される女。まがうことなくFALCONの大好きな、潜在的な変態体質のヒロインである。

 芙由子には勤勉さと吸収力がある。19~20歳のこの時期に、とにかく貪欲に芸人としての栄養を食べつくし、長持ちするための財産を作ってほしい。金や時間をもっともっと浪費したい年頃なのに、これほどまっすぐに芝居に情熱を注ぎ込む若者は、東京時代を通してもそう滅多にいない。
今は同年代の友達と話が合わないかもしれないが、その姿勢は必ず20代の中盤からモノを言う一生の財産だから、信じて続けてほしい。「同期にいたら嫌だ」と面と向かっていえるほどに、芙由子はいろいろな可能性や才能にも恵まれているのだから。
 今度は思いっきり難易度の高い役を与えるつもりなので、客席の皆様もお楽しみに。


【北村唯(ジャニーズくん@空中楼閣)】
 劇団空中楼閣の座長の座を返上するだけでなく、一時は「真打」や「劇団員」としての存在すら危ぶまれたタダシ。2011年は劇団にとっては大きな可能性を秘めた年だったが、君にとっては厄年みたいな気分なのかな?仮に厄年だったとしても、「ヤク(役)がつく」のは役者にとってはいいことだからと、決して厄払いなんかに行かないのが、「一般人」とは違う「役者」の生業だ。
 まあ、タダシも30歳を手前に、いろいろと人生で手に入れるものを選別する時期だ。「悩む」のではなく、よく「考え」て自分の「これからの生き方」を考えてほしい。注意すべきは取り戻せない「過去」を修正しようなんてことを一ミリでも考えないことだろう。

 そんなセンチメンタルジャーニーの真っ只中に、辛気臭い顔で舞台に上がったタダシに振ったのが「ジャニーズくん」というオモロイ役。「ネアカ」な役を演じるのに、己の中の「ネクラ」を肯定しようとする作業ばかりを上塗りしても答は見えないに決まっている。
 タダシも結果を見ればキュウちゃんを演じた誠司と似た課題が残った気がする。「自分なり」にはあれこれ理由を作って着地させたのかもしれないが、果たして大上段にカッコつけているその美学は、10人役者がいて10通りのジャニーズくんを演じたときに、何割程度が「北村タダシのオリジナリティ」なのだろう?

 「俺だけがたった一人でこの道を歩いている」なんて思い上がったことを信じているから、隣でまったく同じ道を歩いている仲間のことをいつまでたっても案じてあげられないのだと思う。誰も歩いたことがない道…と言っている時点ですでにそこには「道」があり、過去にはその荒野をたった一人で切り開いた誰かがいるからこそ道があるのだ。
 君のやっていることはほんの少し視野を広げれば、大して珍しいことじゃない。だからと言って、何もしなくてもトロッコが動いてくれるほど整備された楽な道ではない。ただ、そのトロッコに乗っているやつにしか見えない景色があり、それはそんじょそこらの一般人が欲しがっても一生見られない景色を見るためのチケットを君はその腕に握り締めているのだ。
 周りに見えるごくごくありふれた景色が、時にはうらやましくなることもある。なんなら、一度降りて、その景色を見てもいい。一度降りたって、ちゃんとしたチケットを腕に刻み込んでいるやつは、もう一度走り出せる。君はきっと「降りたら二度と戻れない」なんていう屁理屈を盾にして、トロッコを漕ぐのをサボっているだけの話だ。

 打ち上げの席で謎のモダン館の白濱さんも言っていたが、永松亭と並んでタダシの芝居は抜群にうまい。空中楼閣の7年間、真打ちを張って来たその腕には、もっと自信を持っていいと思うよ。漕ぐのに疲れたら一度降りてみるのも結構さ。
 ただ、横で必死で漕いで走っている俺たちは、「疲れたからやめろ」とは口が裂けても言えないよね。だって「言われたから」やめるんじゃない、君が自分の意思で漕ぐかやめるかを決めるんだから。

 もうそれ以上走らないトロッコには、「漕げ」なんて残酷なことは言わないさ。伸びしろがあるからこそ、俺はお前に「漕げ」としか言わない。褒めて欲しければ本番の板に上がれ。そうすればお客が褒めてくれるよ。それだけが唯一の自信を持って言えることだ。


【羽山ショー(マダム吹雪@フリー)】
 INDEPENDENT九州予選のときにも似たようなことを記したが、予選前の顔合わせ→本番前→本番→打ち上げと経過する中で、まるで別人かと思うほどにさまざまな表情を見せてくれた女優・羽山ショー。そんな彼女が、ひょこひょこと稽古場に現れたのは、客演の中では一番乗りだったと記憶している。
 つまり、このバチカブリのキャスティングは、羽山ショーというカードを軸にスタートした。ショーちゃんはキレイどころもできるし、わりとモッチャリとした役もこなせそうな風貌をしている。それでも、せっかく遊んでくれるんだから、FALCON作品らしい役として、ミチヨちゃんかマダム吹雪という二つの役のどちらかを振ろうと考えていた。
 どちらにしても対を成す二人の女優をそろえる中で、「キレイどころ」を探すより「モッチャリ」を探すほうが簡単だろうと思い、ショーちゃんには先にキレイどころのマダム吹雪を振ったというわけ。ショーちゃんを上回る美貌のキレイどころが来なくてよかった。

 いろんな面に対して無礼な話はさておき、マダム吹雪と言う役。
 「占い」をテーマにしようと思った時から、作家のイメージの中に浮かんできたのが「水商売上がりの神秘的な演出をする占い師」すなわちマダム吹雪だった。よく「~の母」みたいな占い師がいるが、あれを舞台の上に構築したのがマダム吹雪である。
 色気と人懐っこさに加えて、腹をくくった女の強さとどこか最後は他者を近寄らせない孤高の雰囲気をたたえた女。「ほとめき版」においても、「素人以上」の女優に振ろうと思っていた役だ。物語の大筋を担う比重の大きな役だからこそ、セリフのない時間にも自然と集まる観客の視線に耐え切らなければいけないという、おそらくバチカブリで一番難易度の高い役である。

 ショーちゃんは今までの現場では、あまり「ぶっ飛んだ役」を振られた形跡がない。それはきっと初対面で受ける彼女の印象にイマジネーションの弱い演出家が割と短絡的な仕事を押し付けてきたせいだと考える。彼女は、見るからに真面目そう賢そうで芯が強そうで人懐っこい。もちろん「~そう」な部分はどこまで行っても「~そう」という印象に過ぎず、最後は「人懐っこい」という部分だけが、本当の姿だと感じた。
 そして、演出家たちが抱くその先入観は、彼女自身にも割と取っ払いにくいシガラミとしてまとわりつくらしく、「あたしは本当はこんなんじゃないのに…」「みんながこういうイメージで見るから、ある程度そのイメージでやらないと…」という無言の圧力に、自分で自分の本来の姿をつかみ損なっている感があってもったいない。

 もっと時間をかけて、もっといろんな表情やいろんな言語を使って話し合えたら、もっと面白い次元の遊びが出来るんだけどね。それでも存在感や質感がおもしろいから、マダム吹雪の印象はそれなりに客席にも伝わっていたという手ごたえはあった。
 なによりハチハチな衣装を着た、そのダイナマイトなボディは、「マダム吹雪」を実在と思わしめるに充分な説得力を持っていたようで、実際に水商売をしている方からも評判が高かった。衣装探しなどにも奔走してくれた結果だと思う。

 さて、ショーちゃんの弱点、課題はひとつ。
 それはセリフのアーテュキレーション(関節)が固くて、自在にまわせないことにある。説明くさい台詞回しは手馴れているようだけど、もっとしっかりとした「ドラマ」を描くための台詞回しが少し弱い気がする。
 複数のセリフがあれば感情やセリフを飛ばす対象も変わるし、しんみりしてるシーンだからといってセリフ自体に余計な湿度を与えて「自分がしんみり」すると、かえってセリフというやつは役者を裏切って関係ない方向へ飛んでいくものだ。
 それは1センテンスごとに変化するものではなく、場合によっては文節ごと単語ごとの単位で鮮やかに変化するものだ。「覚えたセリフ」を自分の呼吸でただ言うのではなく、衝動と刺激を再現し、必要に応じてセリフを飛ばせたら、知力と体力はあるんだから芝居の腕は飛躍的に進歩すると思う素材だ。

 ちなみに舞紀の項で出てきた、今回の本番で舞紀のぶんまで「匂い油」が立ち込めていたのは、何を隠そう羽山ショーである。ど頭からボルテージのつまみをMAXまでひねったままで、元に戻すのを忘れてしまったショーちゃんの芝居は、そのハチハチの衣装以上にハチハチのテンションになっていて面白かった。酸欠で倒れなくてよかったぜい。
 まだまだ若く、大きな可能性を秘めたおもしろい素材だと思うから、出来ればうちのレギュラーに…、あわよくば空中楼閣にいらっしゃいませんか?また遊びませう。  


【小能見大輔(青島コウギョウ@空中楼閣)】 
2010年に現場復帰し、「役者」としてのキャリアを見れば、2011年は大いに飛躍の年となった小能見。舞紀同様にFALCON現場で組むことになるのは、旗揚げのリストラ大王以来となった。今後もともに戦っていくために、小能見には得意技を棄ててもらい、新しい芸を身に着けてもらうのが早急な課題である。
 具体的に言えば、年齢よりも上の役を演じること。誠司同様に実年齢やそれ以下を演じさせれば、小能見もまたなんともいえない「青さ」をすがすがしく役にトッピングすることが出来る役者だ。だが、本公演を重ねていくためには、時には「得意技以外」の芝居が要求されるケースも増える。それに対応するためにも、今回は「安パイ」を棄てて、少し殻を破った芝居に取り組んでもらった。

 「ジャニーズ」を振れば小能見の右に出るものはいないと思うが、あえて重量感やきな臭さを要求される「青島コウギョウ」に配役した。セリフはまわせる役者だから、あとは啖呵をきったり、すごんで見せたり、とにかく重量感さえ出れば「小能見青島」は見えると踏んでいた。
 リストラ大王でいえば今井本部長のポジション、魅力的な登場人物たちが抱える最大のストレスとして君臨するのが「悪役」という仕事だ。ただ、この青島コウギョウは、絶対的な悪役ではなく、どこかに理解できる節もあり、目の前に実在したら思わずついていってしまいそうな魅力を持っている。悪役とはいえ最後に懲らしめられるわけでもない、バチカブリの中でも役の難易度は結構高い仕事だ。

 結果的に見ると、私自身の「バチカブリMVP」は小能見の演じた青島コウギョウだった。当初の狙いとは違うアプローチだったが、結果的に要求された要素は全てクリアした上で、小能見はステージをグイグイと牽引する突破力を見せた。本番、セリフが飛んでしまったり止まってしまって泡を食う役者が続出する中で、軌道修正や見切り発車でテンポを保ち、この芝居の外枠のネジを締めて回ったのは小能見だったと思う。
 2012年は少し汚れ役に挑戦しようか?永松あたりが得意とする「ダメな大人」の役を小能見が自分のものにしたら、それこそセリフはまわせるし体は動くので、一気に芸の幅が広がるのだが。あと1歩か2歩で、一気に真打を狙える小能見、あとはライブやスタッフワークでも頭角を出してくれれば、あんまり言うことはないんだけどな。

【白濱隆次(駅長さん@謎のモダン館)】
 役者の「存在感」という言葉はよく聞くが、白濱さんにはあえて「質感」という形容をしたい。存在感はもちろんなのだが、白濱さんの芝居には、見ているだけで安心したりドキドキしたり、なんともいえない心地のよい波長を観客に感じさせる魅力がある。それは、眼力や表情かもしれないし、体のキレや立ち居振る舞いかもしれないし、小気味のいい長崎弁や声そのものの魅力かもしれないが、とにかく、白濱さんの芝居はいつまでも見ていられるのだ。
 白濱さんとの出会いは2011年5月のINDEPENDENT九州予選。その2ヵ月後には長崎でツーマンライブを敢行し、気がつけば謎のモダン館の福岡公演の中上げの席で、白濱さんのバチカブリ出演が決定した。その決断力と、遠く長崎から稽古に通ってくれた行動力にはただただ感謝をするばかりである。

 白濱さんにはゲスト出演枠として「駅長」という役をお願いした。欲を言えばキリがなかったので、今回はあくまでも「特別出演」ということで、稽古量なども鑑みてこの役にした。もっとセリフや比重の大きな役で絡めれば、それほど贅沢なことはないのだが、どうしても長崎と福岡には空間的な隔たりがあるので、無理はせずにという判断だった。
 駅長さんは一口に言えば「おいしい役」である。しかし、ほとめき版から「単なる賑やかし」の役は書きたくなかったので、駅長にも駅長なりのドラマがある。

 こちらとしては何一つ心配することはなかったのだが、石橋を叩いて渡るタイプの白濱さんには、不安や不満も大いにあったと思う。しかし、そうした言葉を本番が終わるまで一切抑えていただき、お付き合いいただいたことには重ねて感謝を申し上げたい。

 それが全てではないと思うが、白濱さんの芝居作りを見ていて気づいた点は、白濱さんは「役」そのものよりも「音」や「しぐさ」を固めていくことを重視する中で「出力」段階での役作りを求めていくのだということがわかった。セリフを何度も反芻し、口になじませていく中でインスピレーションを高め、それを同じ作業を繰り返したほかの役者と摺り合わせていく。
 内側の衝動や関係性のバックグラウンドを重視し、いつまでも読み合わせを続けてライブに望むFALCONスタイルと違い、白濱さんは表現の出口に出来るだけ早く近づき、その上で出口部分の出力を整えていくという手法で芝居を完成させていくのだということがわかった。
 演出は役者の出力するものを見て、無理や迷いが生じないように、しぐさや言い回しを具体的に指示していく。もちろん最初は役者の出力したものがインスピレーションになり、それによって台本を修正することもあるのだが、逆に「ここだけは譲れない」と演出家が思う箇所は、何度も繰り返して、その形で役者が出力できるまで妥協しない。

 そこには芝居に対する圧倒的な情熱と、演出家としての自信と責任感がある。「台本よりもつまらない」なんていわれた日には、それは役者のせいではなく演出の責任だという使命感が、自信を持って発表できる作品につながり、それこそが15年間もひとつの劇団を引っ張ってきた男の芝居の作り方だということを知った。
 とてもいい刺激になり、いい経験になった。本格的に芝居で絡んでいければと思うが、今度は観客として空中楼閣の芝居を見ていただき、芝居屋同士でいろいろと言葉を交わしてみるのが先かなとも思う。劇団は何度も「蛹と脱皮」を繰り返しながらその羽を広げる。すばらしい役者とのすばらしい出会い、そしてそんな役者を使って遊ばせていただいたことに重ね重ね感謝する次第である。ありがとうございました。


【大坪文(駅員の永井@謎のモダン館)】
 軽いのか重いのか、明るいのか暗いのか、柔らかなのか頑固なのか?とにかくその全てを兼ね備えていて、「しなやか」さと「したたかさ」という女の武器を存分に振り回せる魅力的な女優。それが私がフミさんに抱いている印象である。
 白濱さん同様、いや白濱さんを時には上回るほどに、フミさんの行動力や芝居に対する情熱の注ぎ方には驚かされる。せっかく長崎から出てくるのだから、わずかな時間でもFALCONの現場を研究していこうという姿勢がひしひしと伝わり、稽古場に現れるだけで「生半可なことは出来ない」と思わず背筋を正してしまうひたむきさがフミさんの持っている魔力だと思う。

 そのくせ、おそろしく人懐っこく、打ち上げでアルコールが入ると、そのままのテンションでニコニコ笑いながら猥談をして笑い転げている女。知らないうちに周囲を自分のペースに巻き込みながら、自信を持たせてしまう力に、正直言って今回のバチカブリという現場も大いに救われたことを、ここに記しておく。
 謎のモダン館の白濱さんの参戦が決まった時、「それならば!」とフミさんにも熱烈なラブコールを送り出演が決まった。ちょうど「駅長」と「新人駅員」という役を探していたので、新人駅員の「永井」という役を彼女にお願いした。
 
 永井という役は、実はこの台本全体のもう一人の主役である。「バチカブリ」が市民劇用ではなく本公演用に書かれていたら、もっともっと比重の大きな役になっていたはずの人物。JRの人事で「ヨソ」から久留米にやってきたというのが、永井の役のミソであり、「彼女の目に久留米という町がどう映っているのか?」そして、そんな久留米を愛そうとするひたむきな若者を「この町の人々がどういうふうに受け入れていくのか?」というテーマが、実は本当の「根っこ」に私が描きたかったドラマだと解釈している。
 フミさんはこの役をとにかく丁寧に立体化してくれた。普段の白濱組の現場と勝手があまりにも違い、戸惑い方は半端じゃなかったと思う。役者が悩みぬき、必要性を感じ取り、その肉体を通して発したことであれば「別に正解も不正解もない」というのがFALCONのスタイルであり、特にこれといった注文やダメ出しが出ないことに、苛立ちや腹立ちを抱かれたことだと思う。

 よそ様の女優さんに生意気な注文をつけるつもりはないが、役者を作るという点から見れば、フミさんはもっともっとセリフという道具を自由に扱えたら一気に仕事のフィールドが広がると感じた。テンションやテンポを生み出したり、リレーする力は長けているのだが、シーンの雰囲気やセリフの額面に感情や表現が引きずられている印象がある。

 暗いシーンだからといって、セリフを発する人物にとって全ての単語が暗いわけではない。役と刺激との距離をもっともっと洗いなおして、それを頭の中だとか舞台上の必要な箇所にしっかりと配置しておけば、それほどセリフで説明しなくてもお客はたくさんのことを受け取ってくれるはずである。
 ところがどうしても役者は「セリフで商い」をしようとしてしまうものだ。かと言ってセリフをおろそかにしろと言っているのではない。仕草ひとつで伝わることもあるし、衣装や道具が芝居以上に観客の想像力を掻き立てることもある。つまり、「セリフ」もそうした芝居を形成する一要素に過ぎないわけで…。

 場合によってセリフが最前列に出ることもあれば、2番手3番手に回ることだってある。いつも前に出しっぱなしなのも間違いだし、必ず後ろに回すのも間違いである。だからこそ、そのセリフを何番手に回しても武器として使えるように、よくよくストレッチして訓練しておく必要がある。
 根本的にしなやかでしたたかなフミさんだから、きっとコツをつかめば一発で自分のものにするだろう。これからもよろしくお願いします。もっともっと次元の高いステージの上で、何度もお会いできるのを楽しみにしています。


【永松亭(ナカガワしゃんほか@空中楼閣)】
 2011年の冒頭、石山組の「エリアン~」にはギリギリ間に合わず、その後の「甘棠館」と「江口章子~」で役者として完全復活を果たした空中楼閣の看板俳優・永松亭。ホントを言えば、永松亭が役者としての殻を一枚、音を立てて打ち破った瞬間は、土曜夜市ライブで一人芝居をやったときだと思う。

 滑舌のパンチドランカーと言われ、本も読めるし芝居も出来るのにセリフがまわせないからと、そのキャリアの大半をドブに棄ててきた男が、夜市のステージの上で「セリフを置き」はじめたのだ。感情やテンションを操ることを得意とする男が、得意技をいったん鞘に収めて、「お客のため」に丁寧な芝居を始めた。
 その途端に、芝居は見違えるように整理され、鞘に収まったままにもかかわらず、その武器が唸りをあげながら劇場の空気を掌握し始めた。「芝居は丁寧に」と口をすっぱくして言い続けてきたのだが、ちっとはその手ごたえがわかってきたかな?

 今回の永松亭は、チョイ役を3種類。キャビア・フォアグラ・トリュフの世界三大珍味とまでは行かないが、ナカガワしゃん・添乗員・ヤクザの子分という3品ともに、どれを食べても面白い味のする贅沢な一品に仕上がったと思うのだがいかがなものか。
 これが本公演ならば、それぞれの役でもっともっと尺を稼ぎ、大いにシーンの雰囲気を牽引してもらうのだが、裏を返せば「ちょっとずつ」しか出てこないからこそ、ボロも出さずに飽きられず、「もっと食べたかった」と観客に思わせることが出来たのだと思う。果たして、どんぶり一杯食べられた代物かどうかは演出家は保証しないww

 次回は完全復活した永松亭にもっとセリフの多い、勢いだけで逃げ切ることの出来ない役を預けるつもりだ。もちろん、稽古はかなり厳しいことを要求すると思うから、とにかく芝居の勘とギリギリの滑舌が鈍らにならないようにしっかりと手入れをしておくことだ。


【江口隼人(はしか耕二ほか@空中楼閣)】
 永松亭同様に、今回端役に回したのが、空中楼閣の重戦車・江口。それでも江口が連れてきた白濱さんと少しでも絡ませるために、あえてヤクザの中でもセリフの多い方を与えた。
 本当にこいつはセリフ覚えが悪い。だからあまりセリフを預けたくないのが本音なのだが、それでも本番には舞台上でセリフを作りながら、とりあえずシーンを作り上げて帰ってくるから性質が悪い。今回の現場では、稽古時間が限られている役者もいたから、そういう役者のためにももっと早くセリフを入れて欲しいものだ。

 さて、そんな江口に振った役は2つ。オープニングの旧久留米駅舎のシーンで登場するストリートミュージシャンだ。昔、真似事でさわっていたというギターを引っ張り出させて、一曲歌わせた。「ほとめき版」においては、久留米だから一人ぐらい弾き語りの出来る参加者もいるだろうという目論見で書いた役だったが、いよいよ弾き語りも芝居も出来るメンバーがいない場合は江口に振ろうと思っていた役。
 本番のステージ、こいつはわざわざ譜面が乗った歌本を持って舞台に上がったのに、照明の位置を把握していなくて、譜面が逆光でまったく見えなかったというからお笑いだ。本番前に風邪を引いてのどをつぶすし、いつもギリギリの仕事をしているくせに、ふてぶてしい態度をとるのがこの男だ。

 次回はそうは行かない。FALCONセリフ劇の真骨頂の中で一言一句おろそかに出来ないシビアな役を渡す。まあ、いつもどおりふてぶてしく、本番になれば、あたかも10年その役をやってますという顔でやるんだろうから、演出家としては心配してやる筋合いではないのだが…。
 とりあえず、皆様、かわいがってやってくださいな。
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上演日記「CI-TA#01『バチカブリ!』」2011.12.18 [空中楼閣日記]

 劇計画CI-TAの第01回公演「バチカブリ!~開運!九州”神”幹線~」が終了した。2011年12月18日(日)、暮れも押し迫り、外には雪がちらつく寒い寒い中を、吹きさらしの海風が吹く福岡市民会館まで足をお運びいただいた皆様に、改めて御礼を申し上げます。

 2011年の締めくくり、そして空中楼閣という生き物の生涯の中でも、大きな意味を持ちそうなほどに、個人的には考えることの多い公演だった。久しぶりのコラムなので、長くなりそうだが要点を抑えて、記しておこうと思う。

①劇計画CI-TAというユニット
 「劇計画CI-TA(げきけいかく・しーた)」というユニットを作ろうと思ったのは、いつだったろう?かれこれ1年以上前だったと記憶しているが…。なにしろ空中楼閣にレギュラーで戦える女優がいなくなった頃、「こんなむさくるしい連中だけを相手にしていると気が狂う!」と思っていた頃だったと思う。
 それに加えて、江口を除いた空中楼閣の連中は制作や渉外サイドの仕事をやらない。「出来ない」のか「やらない」のかは知らないが、そのフットワークの重さときたら、そこいらの中学校生徒会と比較してもお粗末極まりない。かつては、ミケドンや健太といったメンバーがいて、その手の行動力に関しては分担が出来たのだが、最近では最初から最後までを江口一人でやっていることが多く、その結果、作品のブラッシュアップがかなりおろそかになっていることに焦るほどである。

 まあ、何を理由にしたところで、それは言い訳に過ぎず、それはつまり「作り上げる作品の精度が下がる」すなわち「腕がない」ことに他ならない。そんな言い訳をしたくないからこそ、FALCONという演出家が単体としてのフットワークで外部の芝居屋と関わっていける場所がほしかった。
 そんな理由で、「劇計画CI-TA」というユニットは誕生した。ちなみに福岡には「パズー」という語幹をもつ老舗の劇団が存在する。こちらはまだまだ全然格下だが、いつか「パズー」と「シータ」でヒコーセキしたりなんかしたら面白いな…、とひそかに妄想してみたりする。

 手前味噌になるが、空中楼閣の面々は、むさくるしいこととフットワークが重いことさえ目をつぶれば、芝居の出来る面々が集まっている。第三法廷で恐ろしい数の「本番の場数」を経験し、空中楼閣では圧倒的に「不利な現場」でも、その空間を共有する共演者や観客と戦い、「応え」を出してきたのだ。どこに出してもそれなりにいい喧嘩をしてくれる芯の通った役者だと思うのだが、いかんせん連中は「専門店」の仕事にどっぷりはまっていて、ひとクセもふたクセもアクが強い。
 彼らをメインに据えて「本公演」のための台本を作ると、どうしても人物像が偏った作品に偏ってしまう傾向がある。中には、「まともな役」をやればそれなりの腕があるにもかかわらず、「作品」から弾かれてしまったがために、「俺には腕がないのか?」とか「俺は空中楼閣に向いていない」と勘違いするものが出てきてもおかしくない。その逆に、空中楼閣の面々を「メイン」ではなく「脇役」にまわすことが出来れば、それはかなり深みや広がりの増した贅沢な作品に仕上がるに違いない。
 そんな想いから、「空中楼閣のための作品」という固定観念を吹っ飛ばしたところで作品に取り組みたいという思いが背中を押して、今回の公演では、初めて「劇計画CI-TA」のユニット名を前面に押し出すことと相成ったのである。


②バチカブリという作品
 その第一回の作品に選んだのが「バチカブリ!」という作品。
 もとを正せば、久留米の市民劇のために書いた本だったが、ゆえあって上演には至らず埋没してしまった作品を、あえて自らの手で息吹を吹き込み上演しようという公演になった。

 師・石山浩一郎との競作で書かれた本は、「九州新幹線」の開通の折に「駅の待合室」を舞台に「旅立ち」をテーマにしたオムニバスだった。石山パートのメインエピソードが「家族」をモチーフにして「過去」を通して「旅立ち」につなげる台本だったので、FALCONパートは未確定な「未来」に対する賭けを通して「旅立ち」につなげるエピソードを探った。
 また、市民劇の段階で、急遽、脚本だけでなく演出もしなければならない状況に入りそうになったので、「出演者が演じやすい」ということよりは「自分が演出しやすい」事を重視し、「リストラ大王」の第一場のようなボルテージの高い空気感を用いた、いわゆる得意技の土俵に持ち込んだ脚本に仕上がった。

 ところが、いざ書き上げてみると、市民劇団では演出部から強烈なバッシングを受け、台本もろとも放り出されてしまった。この台本に対する思い入れが強かったのは、2011年に数年ぶりに本格復帰した劇団員・永松亭だった。久しぶりにFALCONが書き下ろした本が目の前にあるのに、それで遊べないフラストレーションは、FALCONが演出の勉強のために出かけた東京から帰ってきた頃に、小さな種になった。
 急遽、福岡市民会館の小ホールを押さえて、夏場から「バチカブリ!」のプロジェクトは動き始めた。

 コラムの後半にそれぞれのキャストに対する想い等も書く予定なので、一応、作品の内容を記しておく。


↓↓↓ 以下、ネタバレ箇所!! ↓↓↓

 話はごくごく身近な仮想未来、九州新幹線が開通したあとのJR久留米駅が舞台となる。久留米の町には、空前の「占いブーム」が巻き起こり、新幹線は日本中から大量の観光客を集めて、毎日のように「占い目当て」の客たちを吐き出していく。
 それを迎えるのは、「久留米占い師横丁組合」に所属する占い師軍団。タロット・手相・トランプ・水晶…、とにかくあの手この手のエンターテイメントで占いを行い、「レジャー感覚」でやってくる観光客のニーズを消化しながら、久留米の町は大いに活気に満ちている。
 ただひとつ、この占い師たちが、実はブームに便乗しただけの「にわか仕立ての神様」たちであることは誰も知らなかった。

 話をさかのぼれば数年前、新幹線開通前の旧久留米駅前の夜。
 売れないストリートミュージシャンの将来を見事に的中させ、その年の年末には年末歌謡対象のステージに立たせたのは、定年後の趣味でトランプ占いをはじめた一人の老人だった。
 その的中がうわさを呼び、数年後には「久留米の神様」と崇拝される占い師こそが、この物語の主人公・キュウちゃんである。

 JR久留米駅の待合室に作られた「キュウちゃんの占い屋台」を中心に、インチキ占い師たちの運命は大きく転がり始める。ヤクザまがいの興行師を巻き込んで、久留米一の歓楽街・文化街に巨大な占いテーマパークをこしらえる話が持ち上がる。
 一時の使い捨ての「ブーム」は、「文化」として定着しうるのか?己の未来を賭け金にして、神様たちの一発勝負が始まる。

↑↑↑ ここまでがネタバレ箇所 ↑↑↑

 物語全体のボルテージは、空中楼閣旗揚げ作品「リストラ大王」の第一場のノリであり、とにかく電圧の高い人物たちが電圧の高い芝居でストーリーをグイグイ引っ張っていく。盛り上げるだけ盛り上げて、ゲラゲラ笑わせるところもあり、そうかと思えば、一気に温度を冷まさせられるような固い緊張感が張り詰めるシーンもある。

 空中楼閣の面々としては何度も経験しているパターンであり、とにかく丁寧に刺激をつむげば、確実に客席の緊張感を掌握できる自信のある芸である。ところが逆に、初めて空中楼閣の現場を踏む役者には、なかなか難しいパフォーマンスだったようである。
 なにしろ、セリフのやり取りするテンポやスピードが、そんじょそこらの芝居と比べて無茶苦茶に速い。その上、セリフそのものを観客に吟味させる芸ではないので、「叙情」とか「含み」とか「情感」とか「キャラの説明」なんてものをセリフに乗せる必要は一切ない。むしろ、セリフは所詮「いち道具」にすぎず、セリフに余計な意味を乗せた途端にFALCONから容赦のないダメが飛ぶ。

「額面どおりのセリフはいらない」
「セリフとト書きの外に書かれた無数のト書きを読み解いて来い」
 
 そんな言葉が飛び交う。もちろん、市民劇のレベルに合わせて演出する際には、ひとつひとつを「やってみせる」という方法で最短距離で完成を目指したのだが、今回の現場はプロの現場だから、役者たちが自ら欲して自ら消化するまで、いつものように気長な「待ちの作業」が続いた。
 最終的な結果を見ると、稽古時間に対して、もっと妥協して近道を求めてもよかったのかなという感想もある。

 なにしろ年齢もキャリアも芝居のスタイルも違う12人の役者の足並みをそろえるのは容易ではないし、それに加えて「リストラ大王形式」の芝居は、役者が勢ぞろいして幾度となくセリフをぶつけ合わせ、己のポジションや役の発色を読み取っていかなくてはならない。また、稽古をしただけではなかなか語りつくせない部分を稽古後に酒を酌み交わしながら、もっともっとすり合わせていかなくてはならない。
 「役者自信が知っている自分」だけでは事足りないからこそ、さまざまなコミュニケーションを繰り返す中で、今まで見えなかった互いの顔を発見し、己の殻を抜け出ていかなくてはならない。その上で、「酒を飲む」というツールは非常に効率のいいアイテムだと思う。

 そんなこんなで迎えた一発勝負の舞台。「初日」のもつ恐る恐るのプレゼン感と、「千秋楽」のもつやり逃げ感が交錯した舞台になった。場馴れしている役者には客席との対話も出来ていたようだし、逆に緊張感の中に包まれていた役者にとっては、いっぱいいっぱいなパフォーマンスに終わったという印象もある。
 作品そのもののクオリティだけを求めれば、早い段階から通し稽古を連発するのもよかったと思うが、今回の面々はいずれも「一回きり」ではなくこれからも「何度も組みたい役者」だからこそ、あえて「作品よりも役者」を育てることに重点を絞った。役者は壁にぶつかり、自分で考え、台本の中と台本の外を行ったり来たりするからこそ、本当に自分が欲し、自分自信に対しても観客や共演者に対しても説得力のある芝居にたどり着けると私は信じている。
 そういう意味では、「もっとクオリティの高いバチカブリ」はなし得たはずだし、役者たちの中には芝居を終えた「手ごたえ」を違う形で感じたかったものもいるかもしれないが、全ては演出の責任なのでご容赦いただきたい。そのフラストレーションこそが、集団や個人にとっての「伸びしろ」だし、FALCONからの手土産だと思って今後の参考に使っていただければと思う。そして、その手土産が消化できたら、またFALCONの稽古場でともに遊ぼう。その課題が消化できれば、こちらから頭を下げて迎えにいく心づもりである。

③空中楼閣7年目の締めくくりに
 そんなこんなで迎えた「バチカブリ」の本番。たったの1ステージにもかかわらず多くのお客様に足をお運びいただいた。個人的な印象としては、これまで空中楼閣の劇場でお会いしたことのない方々だけでなく「芝居そのものを初めて見る」ようなお客様の割合が多かったようである。
 不景気ではあるけれど、寒い中、時間を示し合わせて集合し、お金を払って芝居を見る。その不自由極まりないおもしろさに価値を覚えていただく方をもっともっと増やしたいというのは空中楼閣の前身・第三法廷からの基本的なスタンスである。
 そういう意味では、また新しいフィールドを模索していくべき空中楼閣にとっても、「出会い」や「節目」を予感させる公演だったと思う。

 俳優たちも然りである。遠く長崎や佐賀から駆けつけてくれた面々と新しく出会った仲間たち、そして第三法廷の時代から数年ぶりに再会した面々との絡みも面白かった。これまでに積み重ねたものや広げてきたものが、作品という旗印のもとにある種の結晶を結んだという手ごたえを感じたのは大きな収穫だった。
 これを機に、もっともっと縦にも横にも大きくなりながら、新しい可能性を模索したい。現に3月の公演では、また一人、百人力の女優が帰ってきてくれる。一度一度の作品に対するありがたみをかみ締めながら、全力で遊んで行きたいと改めて思った。

 重ねまして、ご来場いただいた皆様、ご出演やご協力いただいた皆様に厚く厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

キャスト紹介はこちら
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演劇鑑賞日記「HIGAN」 [演劇鑑賞日記]

2009年9月6日(日)
ポンプラザホールにて、劇団マニアック先生シアターの第4回本公演「HIGAN」を見た。
昨年より交流のあるフリーの役者、手島さんからの誘い。

 劇団の経歴は存じ上げないが、まずは劇場に入り、受付の対応を見る時点で「大人の劇団」という印象を受ける。さらに客席に着き舞台を見ると、舞台装置の金のかけ方に驚く。

 そして開演。

↓↓↓↓ 以下、ネタバレあり ↓↓↓↓

 時代設定はわからないが、何かの工場の城下町である下町で二人の男がオイチョ株に興じている。
 一人はべらんめえ口調の江戸っ子らしき男と、もうひとりは、ボロボロになった「銀河鉄道の夜」なんかを読んでいるちょっとインテリな青年。

 何でも数ヶ月前に工場が運転を停止し、不景気のどん底にあるという。

 まるで「三丁目の夕日」のような景色の中の男たちだが、そこにこの風景にはおおよそ似つかわしくない少女の姿の「アンドロイド」が現れて物語は動き始める。

このアンドロイドは、同じ工場に勤める「変わり者」のソネさんがこしらえたもので、昔亡くなった自分の妹の姿を投影して作ったものだ。

 そして、「アンドロイドもの」の例に漏れず、この人形は感情をもつ。感情の向かう先は例の文学青年、持った感情の種類はもちろん「恋心」である。

 文学青年もなぜだかこんな「からくり人形」に妙に惹かれてしまい、二人は適度な距離を保ちながらも少しずつその距離を縮めていく。

 実はこの二人には、人種(?)やDNAそして時代までも超越したある因縁があった。その当人たちも知らない因縁こそが、この物語の核である。

 それは今から数十年前、ロボットのモデルとなった妹は町の隅にある井戸に落ちて死んだ。近所の男の子と一緒に落ちたが、妹が先に落ちて絶命、その上に落ちた男の子は一命をとりとめた。

 男の子はやがて成長し、子をさずかった。その子が、くだんの文学青年である。

 井戸に落ちたとき、一対の男女は心惹かれあっていた。そのときの因縁の糸が未練として現世に残り、「彼岸」のころに青年とアンドロイドを結びつけた。

 まあ、ざっというとこんな話。

 ここに、狂言回しであるボケたおじいちゃんやお菊さん(お岩さん)なる幽霊が出てきて大騒ぎのなんやかんやで最後は「銀河鉄道」にのって成仏する、ってところか。

↑↑↑↑ ネタバレ箇所終了 ↑↑↑↑

 まあ、ラブとSFの要素を入れた作ってる本人は怪談だと言う芝居。

 まずはじめに、芝居自体の喉ごしとして感じる違和感を数点。

①時代設定がわかりにくい
 これは、芝居という芸術の特性上、とくに厳密になりすぎる必要はないのだが、せめて話の中での「統一感」は欲しい所。三丁目の夕日っぽいのだが、ところどころに現代っぽい感覚が出ていた。
 同時に人物設定や年齢設定、方言の使い方などがてんでばらばらで、これが物語の骨組みを大きく捻じ曲げた。

②狂言回しの数の異常な多さ
 怪優・手島曜をはじめ、脇を固めるキャラの扱いが雑で、必要性を感じない。皿屋敷のお岩さんと思しき幽霊は、お菊さんという名前で登場し、ほぼ「霊界と人間界のシステムの違い」について説明するためだけに出てきたといったも過言ではない。
 じいさん、お菊、べらんめえの男。狂言回しだけで3枚もコマを用意した割りに、それぞれが大筋に対してさほど影響してこない。役者の使い方が雑で、加えて「福岡演劇お得意」の不要なギャグを多用させる演出にはかなり閉口した。

③舞台装置の無駄
 先ほども書いたが、まず劇場に入ると一番に感じるのは、舞台セットの豪華さである。美術自体は優れていて、金も手間もかかっている。芸も細かくて、土手の上には雑草を配置して質感を持たせたり、テンポの速い芝居に対して大道具のトラブルが発生することはなく、頑丈に作られたいいセットだと思う。
 しかし、特に照明があまり効果的に機能しておらず、例えばアンドロイドをこしらえている研究室のようなセットがあるのだが、この天井に配している照明などは「アンドロイド登場」のシーンでいっぺんだけチカチカさせるだけで、あとはほとんど使わない。
 一番の問題は、上下に一台ずつ配されたフットのライト。これなんかは、お菊さんことお岩さんが「不必要なギャグ」をかますときに使うだけで、あってもなくてもかまわないものだ。
 もちろん、すべてが「必要性のみ」を追求する必要はないが、明かりの設計図やスケッチが緻密で、金のかかったセットだけに、こんな無駄なフットライトが裸で堂々とおいてあることに、演出も舞台美術も違和感を感じなかったのだろうか?こだわりの核が「無駄なギャグ」のために揺らいでしまっていることに、とても残念な思いがした。


 ここまでが、舞台の喉ごしに対するツッコミ。ここからは、もっと本質的な芝居への疑問。

 大きく分けると2点。この台本には致命的ともいえる疑問が未消化のまま放置されている。

 まず1点は、文学青年と父親の関係。
 もともと、主人公2人の恋愛感情というのが「子供」のまま止まっていて、それこそ「宮沢賢治のチン毛の生えてなさ」というか、子供向けの幼稚さを感じて大人の鑑賞には向かないところにも問題があるのだが…。それでも、「ここまでして成仏しようとした」二つの心が、子供の肉体やあらゆる手段を通じてやっと成就したという話なのだが、ここまでして好き合った人がいるのに、この親父がちゃっかり子供をこしらえてるという事実に、巨大なクエスチョンマークが浮かんでしまった。
 二人の忘れ形見とかそういうわけでもないし。井戸に落ちて恋人が死んでるのに、自分はちゃっかり誰かと子供をこしらえている。それなりに愛し合った2人がいて、そこに出来た子供が、果たして「見たこともない女」との未練を成就させたいという「チン毛の生えてない親父」の願望なんかのためにその肉体を差し出すだろうか? 
 まずここで、台本の大筋が大きくねじれてしまい、観客は「適当な感情移入」はするものの、心底、納得することなど出来なくなる。まして、その親父は、ノイローゼで自殺したという話になってるのだが、「適当な女」としっぽりしたような男が、ノイローゼなんていうデリケートな精神状態になるだろうかという違和感も残る。


 そして、2点目。アンドロイドのお兄ちゃんの変化を見せなかったことに対する違和感である。
 これは、台本の最後の決め手であるエンディングの書き方だが、最後の最後、大団円を迎えたときに、なぜかこのお兄ちゃんが出て来なかったのに、もはや怒りともいうべき嫌悪を感じた。
 作者は結果的に気づいてなかったことを露呈したが、不要な狂言回しも含めて、この芝居に登場する全ての人物の中で、物語の構成上「真の主人公」はアンドロイドをこしらえたお兄ちゃんである。
 台本というのは、最初の時点から、ある出来事が起こり、最後の地点に到達したときに、何かの変化が訪れているというのが絶対目標である。その視点から見ると、「幽霊」や「アンドロイド」なんていうSFを使ってまで変化させようとしたのは、「チン毛の生えてない恋心」ではなく、今もなお死んだ妹にこだわりアンドロイドまでこしらえてしまう「シスコンの兄貴」である。
 こいつが、アンドロイドなんかにうつつを抜かさず、工場の新しい目玉になる製品の開発に力を注いでくれれば、オイチョ株の2人だって、不景気なツラをしないで仕事にいけるのだ。
 つまり、この物語は本来、兄貴の心の変化を表しているべき話のはずが、最後の最後、「あの人も憑き物が取れたような顔で仕事にがんばってるよ」みたいな台詞が出てくるだけで、肝心の「変化したあとの姿」を見せてはくれなかった。

 もちろん、演出意図で、そこを隠すのも一手だとは思うが、あの根暗なお兄ちゃんが、例えば7・3分けにさわやかな作業着姿で現れて、「さー、みなさん♪今日も元気にお仕事がんばりましょー!!」とか言いながらラジオ体操でも始めたら、観客は間違いなく笑ったと思う。
 途中で「井森美幸」がどうしたこうしたの、「クソみたいな笑い」に走らせるぐらいなら、よっぽど大筆で確実な笑いを取れる大団円があるのに。結局、この作家・演出家は「クソみたいな笑い」を食べるのに夢中で、登場人物たちを本気で成長させようなんていう愛情を持ち合わせていないのだ。
 

 この2点が大きく話を捻じ曲げて、結局、何が言いたくて書いたのかわからない「単なる舞台美術ショー」出終わっていた。
 SFの要素も、わかりにくい。「彼岸」「幽霊」「アンドロイド」「輪廻・遺伝」「痴呆」「銀河鉄道」、普通ならどれかひとつで充分に物語を構成することが出来る要素をテンコ盛りにしてしまったことで、物語のからくりがゆがんでしまったのは言うまでもない。
 まさか、志が遂げられなかった人間の魂は、アンドロイドや自分の子供の肉体なんかをのっとって地上に下りてくるなんてのも知らないし、昔死にかけたボケ老人には見えるお岩さんの手ほどきで、彼岸の日に銀河鉄道に乗せられて成仏するなんて、ややこしすぎる。

 また、暗転の使い方も全く持って「逃げの暗転」だし、呼吸がワンパターンで3回で飽きる。暗転中に流れる音楽も間が抜けていて睡眠不足のボキは相当眠くなった。現に途中で始まった宮沢賢治の朗読は、尺が長い上に下手くそで、ボキはあっけなく成仏した。
 台本自体は1時間半ぐらいしかないのだが、平気で2時間半ぐらいに感じたのは、テンポの単調さだと思う。

 役者の個々の力はあるのだが、物語や人間そのものに対する問題意識が低く、妙な危険を感じる。若い子達は何もわからずに、こんな「危険なツッコミどころ」を放置した芝居を盲信して飲み込んでいく。
 全体にツッコミがはっきりしていたということは、それなりにまとまってはいたのだが、これだけ「無駄な余力」があるのなら、空中楼閣に力を貸してはくれないだろうか…。

 芝居は、生身の人間が生身の人間を使って生身の人間に伝える芸。どこまでいっても、人、人、人だと思う。

 


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演劇鑑賞日記「加納の鼻」 [演劇鑑賞日記]

 2009年4月29日(祝)
 劇団爆走蝸牛第4回公演「加納の鼻」をみた。

 劇場は、「湾岸劇場 博多扇貝(おーがい)」という所で、キャパは今回の芝居の場合(上演スペースは演目や演者にあわせて毎回作り変えていくみたい)、どうにかこうにか50席という所か。最近できた劇場らしく、あの福岡サンパレスの建物の中にある。とはいえ、元はロビーのスロープの下にある倉庫かなんかを改造したのだろう、劇場の中には大きな丸柱が数本立ち、とかく上演スペースを確保するのに苦戦しそうな劇場だった。

 さて、爆走蝸牛。
 空中楼閣の役者たちも肥前夢街道の仕事などで面識がある、中嶋さとさんを主宰に、役者としては同じくこれも面識のある村上差斗志さんと作った劇団である。福岡で仕事をしているとどこかしらで出会う機会の多い「有名人」の作った劇団でありながら、今回、自前の作品というのを初めて見た。

 劇場自体が「ロングラン」や「長期の仕込み&稽古」を中心に安価で貸し出していることもあり、今回の芝居は、なんと3回公演&4回公演の連続公演。5日間6公演の2回転で12ステージを一気にやってしまおうという少々乱暴な企画。しかも、2作品で舞台の仕込みはもちろん、客席とステージの配置まで変えてしまうという荒業をやってのけている。
 同じぐらいの資本で芝居を作っている身としては、それがどれだけ大変なことか良く分かる所だが。いやはや、大変な企画だ。

 さて、とりあえず、芝居を見ることに。

 まあ、簡単に言えば、禅智内供の鼻を描いた芥川龍之介の「鼻」のパロディであり、目の前にぶら下がっているコンプレックスを相手に葛藤する男の心理を(まあ、ごくごく初歩的な方法ではあるが)立体的に描いた作品である。
 ざっとした話は以下。

**** 以下、ネタバレ ****

 主人公の加納は、希代の能力を持つ霊媒師。自宅に除霊の依頼者たちが連日訪れ、有能な弟子たちはテレビで公開除霊を行ったりしながら活躍している。

 そんな加納には、大きなコンプレックスがある。
 それは、とてつもなく大きくて、そして醜い自分の鼻である。その鼻を笑われるのが嫌いで、加納は家から出ることができず、また俗世との関わりを最小限しか持つことができない。

 物語は、なにがしかの霊に取り付かれて不眠症になった少女とその父親、そして、加納がひそかに思いを寄せていた駅前の喫茶店のウエイトレス(彼女は逆に加納に弟子入りしたいと申し出てくる)を巻き込みながら、ドタバタと進行していく。
 その舞台には、加納の「鼻」自身も具現化した姿として登場し、霊だの人間だのコンプレックスだのが入り乱れる。

 最終的には、加納自身が、自分のコンプレックスと対峙し、それを乗り越えていくのか、それとも受け入れることができないまま生きていくのかというところに向かっていくのだが。

**** ここまでがネタバレ箇所 ****

 まず、芝居を見た第一印象として感じるのは、セリフのやり取りにおける演出意図の不可解さである。

 これは、脚本そのものの意図なのか演出家の意図なのかは分からないが、台詞回しが回りくどいというか、演劇ぽくない。まるで、ボキャブラリーの少ない素人同士が下手くそな間合いを取りながら喋っているような、フワフワしたやり取りで、どうにもこうにもシャープさがない。その割に、ただただ尺を取ってまどろっこしい。
 いわゆる「芝居らしいセリフの飛ばし方」を極力避けているというのか、何かそのあたりに対する抵抗が演出として見て取れる。ただし、観客が、話を追っていく上で、観客が感情や「展開」に意識を動かされていく所は、彼らが仕掛けた「芝居ぽくないところ」ではなく、全て「演劇らしい王道のやり取り」であった。つまり、この意図は大きく肩透かしを食い、単に、話をまどろっこしくし、無駄な尺を取るだけに終わっていたようだ。

 「笑い」に関してもそれは共通する所で、タイミングや間をはずした「シュールな笑い」「薄気味の悪い笑い」を用いることで、個人的な「ツボ」を表現したつもりなのであろう。しかし、観客が笑っているのは全て「ベタ」で教科書に則ったストレートな表現であり、このあたりも大きく目論見が外れていた所であった。
 そもそも、演劇に「笑い」ってのはそんなに必要なのだろうか?ストーリーの筋を外れてまで、話のテーマを冒涜してまで取る「笑い」。そんなくだらないものだけが、東京から福岡に流れてくる…。一度、福岡中の演出家を集めて討論してみたい所であるが…。

 このあたりを総合すると、さっき語った「演劇らしさを外しにかかった演出意図」は、もともと仕込まれた脚本のからくりではなく、演出家自身の判断から出た意図ではないかという推測が強くなる。そして、そのあたりが、この作品を、ただただ分かりにくくした。どちらかというと、観客が体力を使って理解しに行かなければならないので、そういう作業に慣れてない人には、分かりにくいし面白くない。

 そもそも、どこかから借りてきた台本らしいのだが、役者のレベルの高さに対して、台本が幼稚すぎる。全員、それなりのホール、それなりの台本で力を振るうほどの実力があるのに、脚本が稚拙で自分勝手なところへ、演出が「芝居らしさを封印する」という縛りをつけたために、フラストレーションが舞台にも客席にも充満してしまった。
 なにゆえ、こんなつまらない台本を探してきたのか知らないが、結果的に、役者がチャーミングに見えた箇所も、台本の面白い部分が伝わった所も、演出の意図に反した箇所ばかり。

 台本については、これもまた言いたい所がある。
 芝居をしていながら知らないというのも失礼な話だが、東京で名前が知れているらしい岩井秀人という人物が書いた本なのだが、着眼点も手法も、そして人間観察ややり取りされる理屈も全てが幼稚で、正直、何を伝えたいのか分からない台本だ。作品の数はこなしているようなのだが、人間を描く気は薄いようだ。まともな大人が見てドキッとする発見、すなわち感動は、少なくともこの台本にはない。

 劇中、主人公のもとに除霊に訪れる少女は、父親の子を妊娠している。その上、その父親は、さらに少女の学生時代の先輩でもあり、主人公に弟子入りしようとする女性と肉体関係を持っている。
 こんな深刻で不可解なドラマを「面白半分」に仕掛けておいて、このあたりについては解決されることもなければ、むしろいい加減な笑い話で投げ捨てられてしまう。「主人公の鼻」より先に解決しなければならないことが山積みで、ストーリーの進行がまどろっこしくて邪魔くさい。無責任な台本は、無責任な展開をして、無責任な結末を導き出す。

 登場人物もあと3人は削れるし、ちゃんと整理すれば余裕で1時間に収まるような話を、ダラダラダラダラと尺だけ食いながら進めていく台本。学生さんが学園祭かなんかで書くような、なんとも浅い精神世界を「触ったフリ」をしているだけの台本で、とてもじゃないけど「大人の鑑賞」には耐えられたものじゃない。
 福岡にまともな台本がないのが最大の原因であるが、こんなしょうもない台本を東京から入れているから福岡の芝居は、どんどん時代から取り残されていくと私は思う。。早く芝居を書かないと…と、改めて痛感し、大いに反省した。


 配役や役者の使い方にも言いたいことはある。
 「爆走蝸牛の公演」と言っておきながら、爆走蝸牛の2人が演じている役の難易度が低すぎる。普通なら、村上さんが主役の加納を、そして中嶋さんがその弟子の霊媒師の役をやってしかるべきである。
 ところが、このあたりを客演に任せておいて、当の二人がやっているのは、簡単な役を更に安易に演じているだけで終わっていて、「これを本公演と呼ぶのか?」といささか疑問を感じてしまった。2人とも、実力のある役者なのに…、実に残念だ。

 百歩譲って考えれば、2連続公演が引き起こした弊害ということも考えられる。私はもう一本を見ていないので分からないが、もしかしたら、そちらの作品で2人はウエイトの大きい主要な役を演じて、こちらの作品では仕事量を制御したとも考えられるのだが、どうだろう?
 どちらにしても、あれだけのキャパであれだけ金や手間隙をかける2人が、どうして一番重要な「役者」として手を抜かざるを得ない流れを作ってしまうのか、なんとも釈然としない感想が残ってしまった。

 金のかけ方や手間のかけ方にも言いたい事がたくさんある。
 私の場合、「必要に応じて」人やモノを配置するという教育を受け、それを実践してきたので、「無駄に」手間隙や金がかかっている作品に疑問や違和感を覚えてしまう。
 私は開演前から気づいていたのだが、天井から滑車を使って吊ってあった「リボンつきのワイヤレスマイク」。いつ使うのかと思えば、終わりも終わり、それも全く必要性のないシーンで、実に浅はかな形で使われたのみ。加えて、同じシーンで、ワイヤレスで歌っているのは一人だけで、他のキャストは生歌で歌っていたりする。
 少なくとも空中楼閣の現場なら、あんなものを吊っている作業の段階で、誰かが「これ必要ないからやめよう」と言い出すはずである。

 後半で出てくる中嶋さんのウエイトレス姿、テレビに貼り付けては食べるウズラの卵、鼻の気ぐるみにしても然りである。胸元にマジックで「鼻」とひとこと書いたって通じるものをわざわざ作る段階で、「必要・不必要」の取捨選択が、どれほどなされているのか、福岡の演劇を見ていて思うことは多い。
 劇中で使用する映像も手間がかかっていて、照明機材もやけに金のかかったものを使っているのだが、たいした意味も成さず「もったいない」という感想しかでない。


 さて、直感的な感想を羅列すれば、ざっとこんな所か。
 しかし、繰り返すが役者はみんな腕があり、加えてチャーミングなので、台本は面白くないが、飽きる所や目を離すところはほとんどないまま1時間45分が過ぎた。これは観劇した全員が思ったようだが、席が狭くて、身体が痛くなるという弊害は大いにあったが…。

 しかし、脚本の作風や演出意図に「演劇らしさ」から抜け出ようとする姿勢はあったと思う。それが、新しくもあり、また本末転倒したところでもあり、どちらにしろ勇気と行動力のある作品ではあったと思う。

 「全てを分からせようとする演劇が正しいのか?」私自身も、演出家として常々考えている命題である。この作品は、他人から見れば些細な「自分のコンプレックス」と向き合いながらも、その最大のテーマの解決を最終的にうやむやにして終わる。むしろ、大きなことも小さなことも、ほぼひとつとして解決しないまま、芝居が終わるのだ。
 観劇後、「これもまた表現の一つか」と納得をしながらも、しかし、「せめて自分自身は納得するもの」というのは最低限であり、そうするとやはり「芝居は、多少分かりやすい方がいい」と、自分の今後の作風について考え直した所である。

 空中楼閣もいつまでも休んでいる場合じゃない。来年は5周年。無風や逆風に怯むことなく、大きな帆を揚げて船出しなければならない。そして、空中楼閣自体が大きな風にならなければならないな…と、強く強く思った。

 福岡の演劇は、まだまだ本気になっちゃいない。
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演劇鑑賞日記「六畳の狼~遠すぎた戦場にかけるレマゲン鉄橋~」 [演劇鑑賞日記]

2009年3月21日(土)
UnitAA ~冬来たりなば春遠からじ公演~青年センターくうきプロジェクトワンコイン実験シアター参加作品「六畳の狼~遠すぎた戦場にかけるレマゲン鉄橋~」を見た。

福岡青年センターでは、毎月第3土曜日に「くうきプロジェクト」と題して、演劇に限らず、さまざまなアーティストや活動を行っている人たちが集まり、発表や交流の場を設けている。

演劇はその中で「ワンコインシアター」と銘打ち、500円で見ることのできる企画を立ち上げ、ここで発表する場を提供している。

恥ずかしながら、今まで私は「ワンコイン芝居」というものにアレルギー的な拒否反応すら持っていたために、今回、この芝居を見るまで、そんな企画があることも知らなかった。

1月公演で手伝ってくれた手島さんが出演していて、数日前に「なかなか面白いものに仕上がっているので、是非」とのメールをもらっていた。手島さんがそこまで言うんだからと、WBCの見すぎで時差ぼけになっている劇団員・江口の体を引っ張って見に行った。

青年センターは、新天町の突き当たりにある西鉄グランドホテルのすぐ3件隣ぐらいにあり、立地的にもかなり一等地にある。そんなことすら知らなかった私は、恐る恐る劇場に入り、いつものごとく、最前列、桟敷のかぶりつきに腰掛けて拝見させていただくことにした。

普段は学習室か何かなのだろうか?フラットな部屋にスピーカーを立て、天井に木ビスとバインド線でぶら下げた照明器具は、よく見ると空き缶をくりぬいて真っ黒に塗りつぶした手作りのスポットライト。それでも、回路を通して調光卓に接続された照明は、フェーダー1本で自由自在に明るさを絞れる立派な舞台装置である。

さて、芝居が始まる。


**** 以下、ネタバレ箇所 ****

話は単純明快である。

一人の老人が6畳の居間のコタツにすわりテレビを見ている。しかし、一日そこから動かず、息子やその嫁には「老いぼれ」とののしられ、トイレに立つことすらままならず尿瓶に用を足す姿は、「暮らしている」というより「死を待っている」ようななんとも儚い光景ですらある。

そんなある日、老人に差出人不明の荷物が届く。
震える手つきでその大きな包みを開けると、そこには太平洋・大東亜戦争の時代、若かりし日の自分が戦地で手にしていたのとまったく同じ型のライフルが入っているではないか。

懐かしむように、その銃を手にする老人。
するとそこへ、かつての戦地で「生死を共に」と戦った、従軍の部下たちの姿が現れ、かび臭い6畳間は苦難の青春を送った戦地の思い出へと吸い込まれていく。もちろん、それは、老人の思い出の奥底に澱のように沈んだ思い出が見せる幻であるのだが…。

思い出の中で戦地に降り立った老人は、さっきまでテレビのリモコンにすら手が届かずにあわを食っていた彼ではない。ライフルを構え、駆け足をし、コタツをバリケードに敵の銃弾をかいくぐり…、泥にまみれ汗だくになりながら「守るべきもの」を守るために戦った青春時代のたくましい姿である。

急に老人が取り始めた珍奇な行動に、家族たちは困惑の色を隠せない。だが、今朝食べたものも思い出せない老人の奥底に眠る「体験」の記憶は、戦争を知らないものには知ることもできない、触れることもできないものであり、あの時代に散って行った幾万の命「青春」たちの屍の上に我々の今日があることを誰一人として否定することはできないのである。
彼らが命を賭して「守りたかったもの」が、子供たちの未来、すなわち今を生きる我々の日常なのだ。

糖尿を患い、動悸・不整脈を抱えた老人の体は、6畳間でひとしきり大騒ぎをし、最後は銃弾に体を貫かれたように倒れ落ちる。

最終的なテーマとしては、その死に様を看取った家族たちが、「老人が命を懸けて守りたかったもの」は何かということや、「頑なに心を閉ざしていた」のは実は自分たちのほうだったということを知る。最後は、息子の目の前に、戦時中の若き逞しき姿をした「狼」が姿を現し、「(自分たちが守った)この国を頼んだぞ」と告げて消えていく。

ってな話。。

**** ここまでがネタバレ箇所 ****

話の筋書きは単純明快で、多少「流行の俗な笑い」に逃げてはしゃぐところもあったが、若い役者もベテランの役者も一生懸命で、エネルギーを前面に表現してくる作品だった。また、出演者たちが、ソデにハケきってしまわず、舞台上に下がる縦長の布の裏に隠れる演出も、体当たりの音響効果やラストシーンへの布石として効果的だった。

若干、シーンの切り替えが単調で、肝心のやり取りを描かずに、老人の家族や幻たちが割と早めに出入りしてしまう部分には、脚本としての安易さを感じた部分もある。しかし、差し引いてみると、この芝居が描きたかったのは、「戦争そのもの」や「老人そのもの」ではなく、「現代の私たちへのメッセージ」という部分を、青臭いながらもストレートに追求していたので、そのあたりに関しては、(あくまでも気にはなるが)概ね受け入れることができた。

強いて言えば、話の引き金であり、台本の中で最大の小道具である「銃」が、いったい誰から何のために送られてきたのか?という最大の疑問を消化しないまま終わってしまう「フルチン主義」な台本の甘さはあったが…。なにぶん、「ホンモノの銃」であるというところに歴史的にも法律的にも様々な障壁があるために、まともな台本の読み方を知っているものには、最初から最後までそのストレスが残ったまま終わるのである。
「俗な流行の笑い」と「意図的とも思えるほど古臭いサブキャストの台詞回し」とともに、喉越しを悪くした三大要因となった。

さて、本題に入るが、特筆すべきは、主役の老人を演じる手島さんの怪演である。
手島さんは、もともと映像作品の撮影畑で仕事をしていた人物なのだが、ここ最近、縁あって芝居の板を踏むにつれて、仕事の領域を伸ばし、最近では毎月のように本番の舞台を抱える多忙な俳優である。先述のとおり、1月の空中楼閣の芝居にも出てもらい、そこでは年齢やキャリアの枠を超えて堂々のMVPとして観客の印象に強烈なインパクトを残した。

老人になってしまった男の不甲斐なさや情けなさを体いっぱいで演じ、若いたくましい時代に記憶が飛ぶと、はつらつとした青年の姿に戻る。この両者のメリハリをしっかりつけながら、途中に(流行の「不要な手っ取り早い笑い」ではない)笑いを掠め取って行く余裕さえ見せた。
役や台本そのもののからくりはさほど複雑ではなく、むしろかなり簡単な部類に入るのだが、それをここまできっちりと読み込み、作りこみ、楽しんで表現してくれると、脚本家としてはそれなりの台詞を任せたいと心底思えるものである。まして、周りの役を牽引して行く存在感というのは、少々の場数を踏んでもなかなか習得できずにいる役者がほとんどである。

もちろん、それらの演技をモノにできるには、手島さん自身がアーティストとして絶えず人間を見つめ、それらの発見を蓄積し、表現の形が変わってもいつでも使えるように磨き上げた成果である。また肉体訓練も、並みの俳優より念入りに行っているので、体の出来上がっていない養成学生上がりの若手では到底追いつけない位置にいる。

映画と酒と女が大好きな彼の素顔を知っている私としては、映画人として一目置いているのは当然だが、私は手島さんという素材を「役者」としてもかなり信頼し注目している。九州の演劇界にとんでもない新人が出てきたぞと思いながら、活躍の場を広げる手島さんの勢いを止めることなく、teamFALCON作品の専属にしたいと密かにたくらんでしまう限りである。
お忙しいこととは承知しているが、是非、空中楼閣の板の上にお越しいただきたい。。


それから、青年センターさんの「くうきプロジェクト」という企画も、実際に目の当たりにして、大いに興味を持ったのは、あえて明記しておきたい。

芝居はとにかく時間と手間がかかり、マンパワーとしてすこぶる燃費の悪い芸術なのは確かである。また、コンサートや映画館に足を運ぶ人はたくさんいるが、演劇に足を運ぶ人が少ない福岡のお客様に対し、どうやって「本当の芝居」を見せることができるのか。興行主である我々はおおいに頭を悩ませるところである。
だからといって、「まともに作った芝居」を「ワンコイン」で見せることには、私はあくまでも反対である。現に、福岡の一部の「エセ演劇関係者」の中には、空中楼閣のチケット2,500円前後を「高すぎる」「常識はずれだ」とのたまう奴もいる。我々は、プライドと信念を持って作り上げたモノを、これでも手間隙をずいぶんと度外視して売っているつもりである。

「実験的な公演」などと甘ったれたことを言いながら、価格破壊の「安い芝居」を街中に氾濫させ、身内や友達をだまくらかして劇場に連れ込み、「演劇ってのは所詮こんなもんか」という悪い印象しか残さない輩が跋扈していることには、私は引き続き違和感と嫌悪感を持つであろう。

しかし、今回の作品に関しては、ワンコインという金額が「いろんな意味で相応」と思えるものだった。舞台装置に金をかけてるわけでもないし、役者の人数も上演時間も少ない。つまりは、稽古の時間にアホみたいに時間を割かれることがないのだ。わかりやすく言えば、「500円で見せる」という趣旨を初めから大命題にして、「そのために作られた芝居」であるから実に企画の身の丈に合っている。
見ている側も2時間モノの芝居のように極限までテーマを求めたりする必要もないし、役者や台本の粗だって見えにくいから、能動的かつ意図的にそのあたりを割愛して、粗がバレてしまう前にテーマを撃ち抜いてしまうことだって可能である。

私自身、書き下ろしの作品なりでこの企画にぜひ参加させていただいて、福岡の「くうき」を私なりの劇空間にしてみたいと思う次第である。

手島さん、なかなかいいもの見せていただきました。。有意義でした。感謝。。
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「19人の欠片」を演じきった欠片たち③ [空中楼閣日記]

【川上健太(空中楼閣)…蔵役純良(デパートのガードマン)役】
 毎度の事ながら健太の仕事には頭が下がるばかりである。今回、19人のキャストのうち、空中楼閣の自前の役者はたったの5人、残り14人が客演ということになるが、そのうち健太が集めてきた役者が5人。健太の動きがなければ今回の芝居は成立しなかったであろうし、毎度毎度、キャスト集めやスタッフ集めの面で健太の力は空中楼閣には必要だ。

 とにかく健太は顔が広い。役者に限らず、わけの分からない所にまでそのコネクションが広がっていて驚かされる。今回も、健太が集めてくれたオモテ方の女の子を昼夜公演の間の休憩時間にいつものように口説いていたら、なんと彼女は高校生だったりしたwwどこへ行っても、話しているうちにたいてい健太の名前にぶち当たる。
 ひどいときなどは、主宰の私を目の前にして、「空中楼閣?ああ、健太の劇団でしょ?」などと言われてしまう始末。友達が少ない空中楼閣の中で、ただ一人、異常な顔の広さを持っているのが川上健太と言う男である。

 しかし、それに引き換え、芸の幅や深さは実に狭くて浅い。実に使い勝手が悪く、出してやりたいのだが、毎度の事ながら役を決めるのにてこずる役者だ。結局の所、それだけの働きをしながら、健太がおもしろい役者を一人連れてくるたびに、健太の役がひとつまたひとつと端役に端役にとスライドしていく。最終的に今回も行き着いた先は、もっともセリフの少ないこの役だった。

 まず健太の弱点は、役作りの図面の引き方である。実に直線的で短絡的な図面しか引かないので、役から体温のある息吹を感じることもなく、全く持って平面的でチャーミングさもない。
 「白でなければ絶対に黒だろう」「赤じゃなければ全部青に塗りつぶせばいい」そんな単純な発色しかしないうえに、「この赤も『自分なりの赤』にしてやる!黄色く見えても、自分なりの解釈ではこれもある意味『赤』だっていうのも通じるだろ!」などと、わけの分からない事を言い出すために、最終的に自分が何を発色すべきなのか、今なにを発色しているのかを見失ってしまい、健太のパレットの上にはドス黒い「灰色」だけがグチャグチャと塗りたくっているだけになる。
 
 下手くそなくせに頑固で、他人の価値観を受け入れようとしない。そのくせ、ちょっと「売れている」とか「注目されている」みたいなレッテルに、異常なまでに尻尾を振り盲信してしまうために、それを稽古場に持ち込んで得意げな顔で披露し始めたりするから厄介だ。
 同時に、先ほどの色のパレットにたとえるならば、健太の芸の「絵の具箱」は単なる整理不足で、出したいときに出したい色を取り出せなくなってしまっている気がする。繰り返すが、健太は他の劇団や他のジャンルの仕事にも手を出し、総合的にポテンシャルはかなり高いものをもっている。しかし、そのひとつひとつの仕事に取り組む姿勢や、仕事を終えたときに気持ちの整理が乱雑で、しっかり絵の具のフタを閉めずに雑多に投げ込んでいるから次に取り出すときにバラバラになっていて2度と同じ色が発色できなくなっている。

 結果、健太が組み立てた警備員の役は、正直言って見られた物ではなかった。髪の毛や顔にメイクを施し、「定年間近のガードマン」という三谷コウキあたりが好みそうな使い古された直線的な人物像を再現しようとしたらしいのだが、台詞回しや声の出所が若者を通り越して「小僧っぽい」上に、立ち姿の力の抜き方が不自然で、初老どころか人間にすら見えない。
 そこへ持ってきて、空間認識や役と役の関係性の理屈が分かっていないために、不自然かつ不愉快な立ち位置に出てくるし、コミュニケーションも一方的で、何を演じたいのかが分からなかった。

 とにかく「演劇っぽいこと」を取り込むのではなく、それぞれのジャンルにおける客観的な技術を順序だてて素直に受け入れて欲しい。その上で、ひとつひとつの仕事をしっかりと整理して、流されるような仕事の仕方を見直せば、もう少し正確な色が発色できると思うよ。
 そして、人の言うことを耳で聞くのではなく、腹で聞けるようになるといいね。人によって自分が変わるっていうのも、勇気はいることだけど面白いもんだよ。これからもよろしく。

【江口隼人(空中楼閣)…利光駿河(マグロトラックの運ちゃん)役】
 今回の作品の観客アンケートの中で、もっとも「MVP」の記名が多かったのがこの男である。
 まあ、こいつは10年前、日本映画学校で「十九人の欠片」に触れているので、かれこれ10年間もこの台本を読んでいる男だ。このぐらいの芝居が出来て当たり前である。

 利光駿河という役の面白みはなんと言っても「声がでかいこと」である。それは、物理的にデシベルがでかいと言うことではなく、集団の中で「声がでかい奴」、すなわち発言権や発言力を握っていく男であると言うこと。脚本のからくり上、ストーリーテラーでもある以上、目立つのは当然で、それだけにセリフがないところでも観客はこの役の動きに目を走らせる。
 だからこそ、ただ「いる」のではなくて、しっかりとした「存在感」を見せるために、本にとらわれず回りを注視しながら役を組み立てた結果が功を奏したのだと思う。ただ、あまりに自由すぎて、本番で彼一人だけが立体的に組まれたセットの高さを生かして遊んでいたために、トラックの運ちゃんというよりも太ったトビ職に見えてしまったところもあった。

 また森の演じた祥志の役と少し共通点が多いため、どうやって色味を分けていくかで試行錯誤したようだ。森は芸があるものの、セリフの量が多く、ガナるところでガナるというバリエーションしか出してくる余裕がない。そこで江口は、ガナるところを森よりも直情的にガナり、その上で警察の叱咤に対して脆く怯んでいくという戦法を混ぜ込んでいった。
 まあ、10年もキャリアがあればこのぐらいの事は出来て当然なのだろうが、今回、観客が選んだMVPというのはそうしたからくりで作られていると言うことだ。

 こいつの問題点は、臆病者のくせに、仕事の取り掛かりがとにかく遅いことだ。
 隣で見ていると、こいつがセリフを入れようと本気で台本を読み始めたのは、なんと本番の3日前だった。他の役者の追加稽古にも顔を出して、自分の役以外のことにも力を尽くしてくれたのだろうが、それならば、どうして12月初めぐらいの時点で、いち早く台本をはずして先陣を切らなかったのだろうか?

 怠け者の成れの果てが露呈したのは、昼の部の公演。
 タダシ演じる高遠主任がひとつひとつの証拠を並べ立て、全員の関係性を明らかにした場面。それぞれが口々に、不平不満をこぼすシーンで、いきなり芝居が寸断された。完全に誰かがセリフを忘れてしまった雰囲気が漂う。かと言って、稽古量の少ない後半戦の芝居、フォローに回ろうにも誰一人としてフォローするワードも思い浮かばず指一本動かせない。
 そんな中で、およそ十数秒後、台本を2ページばかりショートカットした場面に強引に切り込んだのが、トラックの運ちゃんこと江口だった。すかさずタダシの主任が反応し、ぎこちないながらも芝居は何とかふたたびレールの上に乗っかった。

 このとっさの判断には私も感心し、さすがだなと思ったのだが、後で楽屋で台本チェックしてみると、そもそもこの致命的なセリフ忘れをやらかしていたのは、他の誰でもない江口が犯人だったのだ。全ての人間がパニクっているタイタニック号の船内で、ニコニコ笑いながら、家具や調度品でいかだをこしらえているようなふてぶてしい冷静さが、こいつや劇団にとっての武器でもあり同時に諸刃の刃として突き刺さることもある。
 あいかわらず、どうにもつかみ所のない厄介な野郎だ。
 
【北村唯(空中楼閣)…高遠城市(警察チームのリーダー・主任)役】
 空中楼閣に入ってから、タダシ・永松という第三法廷時代からの金閣・銀閣が、今ひとつ本気の仕事をしていない。いや、正確に言えば、演出の私が彼らにその仕事を振り切れていないだけなのだが。とにかく、中心に立って球を直線的に投げる正確無比なピッチングマシーンのような仕事しかさせておらず、外野のフェンスすれすれを縦横無尽に走らせるような外野の守備の仕事をさせていない。本来彼らの得意芸はそちらのはずなのだが。

 今回、タダシが演じた高遠主任は、いわばこの台本の裏面の主役であり、江口演じた運ちゃんと並ぶ主軸のストーリーテラーである。セリフの量も多いし、そのセリフの割り方や質も19人の中で最も難易度の高い役である。だからこそ、座長であるタダシに振ったのだが、戦績的に見ると、鉄壁の守りが光って一点も取られなかったが、逆に攻撃で光る所は見られず一点も取ることが出来ずにPK戦にもつれ込んで勝ったという感じか。

 まず先に褒めておくと、タダシはこの高遠という役をしっかりと割り込んで、セリフとしてもれた所や、相手の球を受けきれなかった所は一箇所もなかった。森のように奇襲攻撃が主体の飛び道具がセリフを拾いきれずにボトボトと落としていく中で、一発も不発がないというのは見事なもんだった。
 しかし、逆に相手すなわち観客の感性を貫くことが出来る荒々しいエッヂの利いた球は一発もなかったような気がする。

 話が専門的かつ抽象的になりすぎたので、もう少し分かりやすく話すと、例えば「高遠主任の年齢」や「家族構成」などがまるで想像できなかったという問題点が残るということである。森や江口、井口誠司の攻撃に対して、タダシの主任は一歩も引かず、冷静さとその奥に何か重大なことを隠した沈着さをもって芝居を仕掛けた。しかし、一歩客観的になってみてみると、タダシの主任はあまりに鉄壁過ぎて、人間くささがどうにもにじんでこなかった気がする。
 難易度は高いが、ただ鉄壁さだけを演じるのなら学生でもそこそこ勘のいい奴は出来る。その中に、さらに輪をかけたいやらしさや打算をにじませ、さらには納得のいく年齢設定と、この部屋を一歩出たときの息吹がタダシの芝居に乗っていると、もっと強烈なインパクトを残すことが出来たかもしれない。

 タダシは福岡でトップクラスに置いていいほど芝居が出来る。しかし、柔軟性や創造性という面でのダイナミックさは、空中楼閣の平均レベルかそれ以下である。つまり、与えられた役やセリフを演出家の意図に合わせて吐くことは出来るだろうが、逆に演出家の想像を超える球を投げることが出来ないし、それが演出家や他の役者の想像力を誘発する触媒にはなりきれていないのである。

 本来は、内野で眉ひとつ動かさない沈着な役をやらせるより、外野を縦横無尽に走らせながら顔を苦痛と疲労にゆがめながらゲロを吐いているタダシが一番チャーミングなのだ。次回はどうにかして、永松・タダシの本気の外野の守備と、乱舞する金属バットにのらりくらりとかすりもせずに真顔で歩いていく江口、そして剛速球を顔で受け止める森・中尾という、空中楼閣の必殺パターンをお目にかけたいものだ。

【中尾健志(空中楼閣)…権現堂康道(おまわりさんの顔が面白い方)役】
 「やれるんだったら、ごちゃごちゃ言ってないで初めからやれ!!」
 学生の彩菜ちゃんと同じ内容の突込みを、1000倍にも1万倍にも増強して、ゲネプロのあとの中尾に投げつけた。今回の本番までの中尾の稽古に対する取り組み方は、それほどにひどく、予想外に足を引っ張られた。

 中尾の芸歴は、学生時代を入れるとボチボチ10年近くなる。その間、第三法廷と空中楼閣の作品のみに集中して打ち込んできた芸は、確実にこいつの体の中に染み付いている。しかし、こいつほど自分の芸を分析せずに、オフシーズンに野ざらしにして手入れしない馬鹿はいない。
 時間は横に滑らせるのではなく、縦に積み重ねろ。そして、一度上った階段は二度と登らなくていいように、あわてて一足飛びに行く必要はないから、丁寧に一歩一歩を踏みしめていけ。これは、稽古場で全ての劇団員に対して一貫して言い続けていることだ。

 当然、中尾も、毎回毎回自分なりの一歩を踏みしめて上に進み、彼の後ろには確実な足跡がついた長い階段があるはずだ。ところが、こいつは、毎度芝居が終わるたびに、「その苦痛のみ」に気をとられてしまい、そこから逃げ出すように、エレベーターを使ってその階段の一番下まで下りて、哺乳ビンをチュパチュパと咥えてガキのような顔をして寝そべっているのが好きな男だ。
 そうして、今回も、読み合わせから稽古が始まったとき、またお得意のあどけない顔をして、階段の下で自分を「俺ってかわいそう」と思いながら右往左往していた。しかし、他の出演者同様に、本番が近づき、極限まで緊張と集中が高まると、中尾は今まで上った階段を一足飛びで駆け上がってきて、それなりに芝居をするのだ。

 また話が抽象的になったが、中尾の問題点は、「芝居の苦しい部分」だけを見て、本来自分が信じて「三度のメシより好き」だったはずの「芝居の面白さ」や「褒めてもらう快感」を忘れてしまうことだ。
 当然、稽古の中で、自分で自分の人格を否定してしまいそうになる寸前まで考え込むこともある。考えても答えが出ずに、思うように体が動かずに、演出家から厳しいひと言やペットボトル、パイプ椅子を投げつけられることもあるだろう。それでも、普通の暮らしをしているだけではどうにも幸せになれなくて…、頭の中や心の中がむずがゆくてたまらなくて、それで喧嘩しながら苦悶しながら「人間」というものと格闘しながら、観客と感動を共有したくて、お前も俺も芝居を始めたはずである。

 その当初の欲求を忘れてしまっているのか、それとも欲求を昇華したのか限界まで頑張って心が千切れてしまったのか。とにかく、そんなお前が、なぜ面白くなさそうに芝居をし、本番すれすれになって急に思い出したような顔をして、手足をやっと伸ばし始めるのかが分からない。
 その哺乳瓶に親が入れた人工的な栄養物を早く手放したくて、俺たちは芝居を始めたはずだ。それを、「やっぱりあれがなきゃ」「これがなきゃ」とガキの頃の安息に手を伸ばし、本質から目をそむけているから、お前の芸は堂々巡りの遠回りを繰り返すんだと思うけどね。

 健太の所で書いた「絵の具の整理」という項目は中尾にも当てはまる。それに加えて、中尾の場合は、絵の具のバリエーションに問題がある。100均で買って来たような単純な配色の絵の具じゃ、お客様からお足をちょうだいするプロの絵はかけない。せめて芝居で使う自分の芸ぐらい、金や時間をかけて、なにより体力と情熱を傾けて、ピカピカの一級品をそろえておく努力をしないと。

 繰り返すが、お前は「本番の芝居」が出来ないわけじゃない。しかし、稽古に望む時点、台本を手にした時点で、「役者の仕事」は9割5分の決着がついているってことを肝に銘じておくことだ。

【一ノ宮寛子(ミクロドロップ)…稲葉浩子(おまわりさんの♀)役】
 さて、本番前に劇団のブログにも書いたが、一ノ宮さんは今回空中楼閣の中でクリアするべき課題をいくつ消化することが出来ただろうか?
 普段は、私以外の、これもまたある種のスタイルをもっている演出家のもとで芝居をしている一ノ宮さん。きっと、やりにくいこととか「勝手が違うな」と思うことがたくさんあったと思う。しかし、実は、その「勝手が違うな」が、現時点での一ノ宮さんの芸の中で見直さなければならない、弱点だったり改善の余地がある訓練のポイントだったりするのかもしれないよ。

 つまりこういうことだ。演出家が二人いれば、二人はそれぞれ違うスタイルで何かを発信しているわけで。しかし、役者はその二人の演出家のそれぞれに、正確な色を発色しなければいけない立場であり、「好き嫌い」や「向き不向き」はあるものの、職人としてその双方の言っていることをそれぞれに噛み砕くより仕方ない。結局、お客の前に立ち、批判にさらされるのは演出家ではなく役者なのだから、お客の前で言い訳が通じない以上、自分の芸に対しても「演出家が違うから」という言い訳は一切通じない。

 今回、一ノ宮さんにクリアして欲しかった不自由さは、「リズムでセリフをはかないこと」「感情を前もってディフォルメしてセリフに貼り付けないこと」そして「得意だと思っているものを封鎖すること」という3点に集約される。

 この3点、どこまでクリアできたであろうか?本番の芝居を見ていた限り、クリアされている部分とクリアできていない部分があった。残りは自分の劇団に持ち帰り、もう一度、見つめなおしながら頑張って欲しい。あとは、そちらの演出家がしっかりと芸を見つめてくれて、適格なアドバイスをくれると思う。

 見た目も面白いし、セリフもはけるし、芝居のセンスは決してないわけじゃない。鍛えて欲しいのは、自分の力の及ばないことに挑むこととか、馬鹿らしいと思っている価値観をもっとピュアに取り入れてみることかもしれないね。
 以前、ワハハ本舗のある女優さんと飲んだ時に、彼女はフリークライミング(部屋の中でやるロッククライミング)にハマってるっていっていた。自分の力の限界をいとも簡単に思い知らせてくれるスポーツだから好きなんだそうだ。なんか分からないけど、例えばそういうのを急にやってみたら?

 あ、そうすると、せっかくチャーミングな今のビジュアルが変わってしまうかもね…(笑)それはもったいないなー…。けらけら。とにかく、楽しかったよ。これからも末永くお付き合いを。


【手島有(フリー)…神前寺浩之(おまわりさんの髪が薄い方)役】
 今回の作品の最終的なMVPは誰か?それは、きっと手島さんの頭上にハレーションしながら輝いているだろう。稽古や本番、また絶対的&相対的な芸の幅や深さ、観客アンケートを見て、今回のMVPは手島さんに決定である。
 
 手島さんは、もともと映画の撮影側の畑から芝居にやってきた。
 しかし、そのアカデミックかつ助平なビジュアルと、もちろん本人の訓練や努力が実を結び、実に面白い素材として、今、九州の演劇界をひそかににぎわしている男である。空中楼閣は熱烈に入団or専属出演を希望するところだが、いかがなものだろう?

 19人の欠片という台本自体がもともと学生向けに作られたもので、役作りは相対に難しくない。ただ、セリフという目に見えた現象が少ないために、役が直線的になりがちなのだが、今回、数人の役者がその立体化に成功した。山口・村上ペア、誠司・村門ペアにあわせて、江口と手島さんがその代表格だ。
 そして、今度は、台本の上に書かれた文字を消化した上で、口臭や体臭、体温やエロスをかもし出したいわゆる色気というジャンルにおいては、橋本くんや村上さん・山口くんに並んで森・江口、そしてやはり手島さんであろう。

 このあたりからしても、最終的に観客アンケートのMVPは、江口と手島さんの一騎打ちになった。最後はやはり、相対的なふり幅である。江口はもともと役者であり、そこから予想の範疇の完成度にしか引き上げていないので、絶対的な評価では面白かったが、最終的なMVPはやはり手島さんにということにしておこう。

 弱点もしっかり克服されていたし、本番で立ち位置や緊張感を敏感に読み始めてからは、実にチャーミングでのびのびした芝居を見せてくれた。そこへ来て、あの助平さが上乗せされれば、まさに「馬鹿に肉棒」である。

 また空中楼閣も映画作品を撮りたいと思っているし、手島さんとはもっともっと創作的に関わっていける関係を求める。おもしろかった。ありがとう。
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「19人の欠片」を演じきった欠片たち② [空中楼閣日記]

【井口誠司(テアトルハカタ)…墨田慎吾(バードウォッチャーのボンボン)役】 
 誠司が空中楼閣の舞台に登場するのはこれが2回目となる。前回は、リストラ大王の初演だったか、エキストラの端役での登場だったが、今回は役付きのセリフ付き、仕事の量からすると上から数えたほうがいいというポジションでの出演となった。

 うちの江口は、縁あって誠司が高校生の頃から付き合いがあるそうだ。誠司は、情熱も行動力もそれなりの知識もひらめきも持ち合わせている面白い素材である。しかし、どうにもこうにもお調子者で、せっかくのひらめきや芸をもちながら、途中から幼稚な遊びに走ってしまう傾向がある。そこさえ気をつけてコントロールすれば、少しは前に進んでいくのだが、なかなか次のフィールドが見えないまま、気がつくと稽古場には年下の芸人たちが現れ、「井口さん」と呼ばれる身分になってしまった。

 今回も稽古の前半には、かなりその不安が的中し、せっかく健全に芝居を組み立てている相方の村門君に、平坦で直線的なセリフを投げて困らせてしまう場面もあった。
 しかし、着目すべきは立ち稽古に入ってから本番までで、立ち位置を取っていく空間認識能力の強さや、全体の緊張感の積み重ねを敏感に感じ取る力はなかなかのものがあった。また、本番では、短所であるセリフの乱雑さや平坦さは消え、チャーミングな人間像を描き出すことに成功した。

 誠司については、今回本番までの間に、自身がプロデュースしたクリスマスイベントの公演が挟まり、メンバーの中にもそれを手伝ったものもいた。出来については詳しく知らないが、それが自身の芸に良く作用し、何かをつかむことは出来たのだろうか?

 誠司はまだまだ駆け出し一歩手前の表現者ではあるが、「俳優」というジャンルにとらわれることのない総合的なアーティストであると思っている。まだまだ、やっと駆け出しの私がアドバイスというのもおこがましいが、芝居にしても何にしても、そろそろ「観客を科学的に納得させる」という視点からのアプローチに切り替えてほしい所だ。
 自分の中にやりたいことがあり、それを表に現していこうとする意志は自然なものであり、意義のあることだ。しかし、自分が手ごたえを得たこととか、自己を開放することが出来たということは、舞台上と客席をあわせた人間の中で自分自身以外にはなんの値打ちもないことである。つまりは、見ている観客をいかに意図的に刺激し、説得力を持って感動させることが出来るかというところには、科学的な裏付けや冷静さというものが必要になってくる。
 そのあたりを確かに持って、「演劇っぽいもの」ではなく、確固たる「演劇」を縦横無尽にクリエイトしてほしい。

【村門聡(劇団092)…中道一郎(バードウォッチャーの貧乏)役】
 いつだったか、稽古場に来た村門君がこう言った。「僕、劇団092の所属になりましたので、(チラシには表記していないが)パンフレット等への記載をよろしくお願いします。」この言葉を聞いて、空中楼閣の面々がどれだけ意気消沈したか村門君は気づいてくれているだろうか?
 今回、稽古場に来てもらった面子の中で、空中楼閣が喉から手が出るほど欲しかった素材が村門君だった。もちろん年齢は若く、まだまだ見足りないものや勉強してもらうことは山積みであるが、村門君の芸に対する姿勢や吸収力、そして何より、時代を超越したチャーミングさは、空中楼閣のイマジネーションを大いに掻き立てる人材だった。

 村門君が稽古場にやってきたのは、19人の中でもかなり遅いほうだった。年齢やキャリアには関係なかったが、台詞回しや役作りにかかる手間を考えて、この役を振った。これで、浮世離れしたボンボンを誠司が、そしてそれに寄生するような貧乏人の友達を村門君が演じる形になり、結果的に見れば「少々ベタ」なキャスティングになってしまった所はあるが、それはそれ、二人は丁寧な役作りで高度なコミュニケーションを演じきった。

 今回、稽古が終わったあとになかなか酒を飲む機会がなかった中で、村門君は割と早めにその本性と出会うことができた。加えて、役作りに対して貪欲に質問したり、積極的なアプローチをかけてきたりと、すっかり年寄りじみてしまった劇団員たちにも見習ってもらいたいほどに、村門君は真摯に芝居に打ち込んだ。
 その結果が、爆発したのが千秋楽。雑な芝居を捨て丁寧な台詞回しを観客に伝えようとした二人が、見事なほど立体的なコミュニケーションを見せ始め、全体の雰囲気を力強く牽引した。セリフそのものが多い上に、似たような台詞回しが多いにもかかわらず、二人は実にデリケートな対話を見せた。

 村門君の課題を上げるとキリがない。しかし、それは、君になにか分かりやすい弱点や落とし穴があるわけではない。ひとつひとつの「結果」すあわち「本番」や「作品」に自信を持ち、同時に繊細な反省点を持つことだ。君の年齢は、価値観や感性が一番花開く時期だ。君の年齢の時期に、なにを見て何を会得したかで、アーティストの一生というのはほぼ決まってしまう。ダラダラと「学生」をやることに夢中になったやつは、たいていそこで終わってしまう。日常や平常にあこがれるのは当然の事だが、それだけを見つめることなく、非凡で本質的なものを数多く吸収して欲しい。

 そして、もう一度だけ、本気で言っておく。空中楼閣に来ないか?

【篠崎絵里(フリー)…ス・ウン・ミン(フィリピン人の割と日本語を喋るほう)役】
 「フリーの役者」と呼ばれる素材が、福岡には結構ゴロゴロしている。中には、ある劇団でキャリアを積み重ね他の方法論を求めてフリーになるもの、学校を卒業したあとどこにつくか考えあぐねているうちに時を重ねているもの、どこの劇団でも使い物にならないからあぶれているもの…。一口に言ってしまえば、その実力やそれぞれが持っている武器は十人十色、すなわち「フリー」にはピンもいればキリもいるということだ。

 そんな中で、篠崎さんという「フリーの役者」は、かなり上級のランクに位置するポテンシャルを持っている女優である。言語センスや音感、そして役の色を早めに仮塗りし、それに本塗りのつやを入れていく作業などにおいては、実に優れた、そして実に素直な感性を持っている。
 若干、カツゼツに不明瞭な所があったり、台詞回しのバリエーションが少なくアクション・リアクションがワンパターンになってしまうこともあるが、年齢や吸収力、そして情熱を計算に入れると、「一級」と言っていいフリー役者である。空中楼閣への本格的な入団を熱望する所だが、本人の意思はどうだろう?
 何より、その最大の武器は、その長身と舞台栄えする美人な顔立ちである。FALCONという演出家は、そんな美人が大好物である。立体的で奥深い色気やチャーミングさを身にまとっていくために、ぜひとも今度は「借り物の台本」ではなく「teamFALCON PRESENTS」の芝居で暴れてくれないだろうか。福岡でも最強の女優になる要素はある、悪いようにはしない。

 そんな篠崎さんだから、稽古場に来たのはずいぶん早かったが、実に様々な役を転々とした。結果的に本人に伝えた役の変更だけでなく、水面下でかなりの数を行ったり来たりした結果、最終的にたどり着いたのがフィリピン人の役だった。
 客観的な結果から言えば、正直言って、今回の役に関しては「大いなる消化不良」の中に幕を閉じたと言っておこう。準備の時間や本人のポテンシャルから考えて、少し出遅れていた所や消化しきれていない所は大いに目立った。相方である学生を引っ張っていくという点から見ても、最終的に二人の性格や色分けが明確に伝わらず、決して高度なコミュニケーションとはいえなかったと思う。

 役に対するアプローチのポイントを上げるとすれば、「タガログ語の音感」と「感情表現の多彩さとシャープさ」、そして「私たちの国、命より靴のほう高い!!」に代表される貧困だろう。フィリピンの方々の生態を知れば、簡単に言うと「二人のフィリピン人の話す言語がすでに違い、その共通語としてタガログを使っている」という立体化が始まるだろう。
 そして、二人の言葉、対日本人の言葉が通じないからこそ、彼女らは実に多彩な感情表現で直情的に気持ちをぶつけてくるのである。

 稽古場で代役をやらせすぎたせいで、肝心要の本役のプロファイルを相談する暇がなかったのは申し訳ないが、せっかくいい素材なのだから前向きなひたむきさは失わないで欲しい。
 勉強こそが奇跡を生む。生き残ることができる種とは、変化しなかったものではなく、変化し続けたものだ。小さな価値観に閉じこもらず、身体も心もスケールでかく、次々に変化していく自分自身を適度に受け入れながら成長して欲しいところだね…、エリちゃん♪

【田中沙耶(FSM)…リ・チュ・ウォン(フィリピン人の日本語を喋れない方)役】
 沙耶さんには実に悪いことをした。
 音感や言語センスが優れていて、台詞回しがボチボチ出来てるので、本来は木戸光代の役を振っていたのだが、相手役の降板や役変更を経て、最終的に篠崎さんと身長やビジュアルが合うという理由だけでこの役に落ち着いた。本当はもっとセリフを食べさせて、女優としての部分をきっちりと鍛えてやりたかった。

 沙耶さんも篠崎さん同様に、少し本番の芝居が入り組んでしまった感じはある。段取りを覚えたり、セリフの「言い方」には多少こだわったようだが、表現が小筆で今ひとつ本質をつかんだ現象には昇華されていなかった。稽古の参加日数の不足は自分で選んだことだ。稽古と稽古の間にもっと自分なりに解釈をいれ、第三者にもっともっと意見を請い、貪欲に時間を積み重ねていれば、「ウォン&ミン」のもっている「悲しさ」に触れることが出来たと思う。

 沙耶さんの課題は、娑婆に出る前にどれだけ自分自身を「脱ぐ」ことが出来るかということ。それなりの勘とセンスをもっていて、ビジュアルにも恵まれているチャーミングな素材であるから、一緒に学校に通っている他の連中よりも道が開けるタイミングは早いかもしれない。
 しかし、何の仕事をするにしても最終的に色気と言うものは、己の中からしか湧いてこない。日常の感覚を失わないように気をつけながらも、その一方で「今までの自分」にない新しい自分を魅せるために、絶えず「脱ぐ」という作業を繰り返しておかなければならない。

 芝居は、その作業をする上では、かなりの近道である。
 役者は「殺人鬼」の役を演じるために「殺人」を犯してみることはないが、どうにかこうにか試行錯誤して「殺人者の気持ち」に迫ることは出来るし、それを自身の肉体に流し込んでみることは出来る。つまり、普通の日常を過ごしている一般人が、決して考えないこと、考えてはいけないことを我々は考えることが出来るわけだ。
 堕落した人生や栄光を極めた人生。色々な人生を体験する中で、一般人の一生よりも、もっともっと肉付けされたチャーミングな感性を鍛えることが出来る。芝居をする気になれば、空中楼閣は年中無休だからいつでも遊びにおいで。

 総合すると、今回は「かっこ悪くなりきれなかった」ってことだね。チャーミングに「かっこ悪く」なる事は、結構「かっこいい」と思うよ。  

【甲斐彩菜(九州ビジュアルアーツ)…浪江和美(添乗員の強精剤をくすねていた方)役】
 彩菜ちゃんに贈る言葉を一口にまとめると「普通に芝居できるならはじめからやれよww」ということになるだろうか。それほどに、我々は本番直前まで君を見くびっていたし、それほどに、君の本番での動きは立派だった。その一方で、稽古場での君のアプローチは、それだけ甘かったと言うこともわかって欲しい。

 まずは、稽古の参加日数。
 忙しいのは自分の勝手だし、飛び石でも稽古に参加するたびに目に見えて上達しているのなら問題はない。でも、全体稽古は、自分の稽古である以上に、他の出演者にとっても稽古であるということも肝に銘じておかなければいけない。相手役の上達は、自分の芝居にも大きな影響を与える。
 できることならば、色々なコネクションを築くことも大事だが、学生の間に仕事に対する姿勢や集中力を養って欲しい。特に君のいる学校はそれを教えようとしないから、君自身が進んで学ぼうとしないと身につかないものだよ。

 技術的な面で言えば、言語センスの磨き直しが必要だね。
 「活字慣れ」をして行く為に、寸暇を惜しまず訓練しておく必要がある。人間は、目で見た文字情報を頭の中で噛み砕いていくだけでも、訓練が必要だ。さらに、それを、我々は音で表現しなくてはならない。「自分で考えたこと」を音声にするのと、「目で見た文字」を音声にするのは、これまた使用する脳の構造が全く違う。そして、こればっかりは、後天的な要素のみが作用する脳の働きなので、日常の訓練の継続以外に、鍛える方法はない。

 訓練の方法は簡単だ。
 自分で読みたい本を一冊買ってくる。そいつを、一日に5ページずつぐらいでかまわないので、声に出して読むことだ。同じ本を何度も読まないほうがいい(この訓練はまた別の訓練としては有効だが)。出来るだけ「初見」で読んでいくほうがいい。この訓練を続けるうちに、読めない言葉を調べようという意志も出てくるし、次第に、目と脳と口が直結していくようになる。

 また、彩菜ちゃんは弱点として、セリフに詰まったら、自分でブレーキをかけて文節や単語の途中で言葉を止めてしまう傾向がある。これは「自分は今とちりました」ということを、宣言しているようなもんだから、やらないほうがいい。
 誰だってお客さんは、「明らかに失敗している」芝居なんか見たくはない。失敗は必ずすることだが、あたかもそれは失敗ではないという顔をして平然とやりのける精神力を鍛えるために、先に述べた訓練のときも、心がけながらやってみるといいよ。

 総合して言うと、やはり、本番での君の堂々たる芝居はビックリしたよ。とちる感じも一切感じなかったし、気が前に出ていたし、リアクションや柔軟性もあった。あくまでも、稽古に比べれば…というレベルでしかないけど、この作品でひとつでも多くのことを感覚と理屈の両面でつかんでくれれば嬉しいよ。お疲れ様でした。

【江口知美(フリー)…酒井みどり(添乗員の財布をなくした方)役】
 本番前に劇団のブログにも書いたが、知美さんの今回のテーマは、持ち味のチャーミングさをどこまで出し切ることが出来るかだった。役としての難易度はかなり楽なほうだったが、しっかりと暴れきることは出来ただろうか?

 知美さんは、それなりのやる気とそれなりのスキルをもった役者だ。しかし、今ひとつ、その腕が磨ききれていないところがある。原因がどこにあるのだろうかと探ってみたが、残念ながら今回はそれを見つけることは出来なかった。
 もしかすると、芸に対する姿勢かもしれないし、普段の生活の中でのコミュニケーションかもしれないが、何かが足を引っ張って、本来のポテンシャルを使い切れないままに埃をかぶっているというのが今回の印象だ。

 具体的な課題としては、音声表現の基礎を見直して、息切れしない役者としての感性の体力を養って欲しい。「役者っぽさ」ではなく、本物の役者は内面から作られていく。形からはいるのではなく本質を見抜き、変化していく柔軟さをつかんで欲しい。機会があったら、また娑婆で会おう。
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